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最近の大学生は...
流産した近代小説
2002/02/10

坪内逍遥は国語の教科書で一度はお目にかかる名前、その代表作は『小説神髄』と『当世書生気質』。日本で初めて近代小説を論じた人が書いたのだから『当世書生気質』とはどんなに素晴らしい小説だろうかと想像をたくましくされる方も多いかと思うが、とんでもなくストレインヂ〔珍妙〕な小説なのだ

(以下の記述は1969年初版発行の筑摩書房・『明治文学全集16 坪内逍遥』所収の作品に基づいているが、旧字体を新字体に、変体仮名の「ハ」を普通の「は」に、そしてHTMLではルビをふることができないため括弧書きでふりがなをつける煩雑さを避けるために難読の漢字を一部ひらがなに改めさせて頂いた)。

まず『当世書生気質』は逍遥が坪内逍遥の名前で発表した小説ではない。「春のやおぼろ」というペンネームで著している。そしてその題名を正確に言えば『一読三歎当世書生気質』である。「一粒で二度おいしい」ではないが、ひと読みで三回感動できる、らしいのだ。

次にこの小説の書式にこだわってみる。小説は全二十回からなる。全二十章でも全二十節でもない、全二十回である。そして第一回、第二回と、各回の冒頭に要約のようなものが付いている。たとえば第一回には「鉄石の勉強心も。変わるならひの飛鳥山に。物いふ花を見る。書生の運動会」とある。読者の中には僕が句点と読点を入力し間違えていると思った方もあろうが、この『当世書生気質』は現代の僕らが句読点を打つ場所にすべて句点(マル)が打ってあるので初めはかなり読みづらい。

さて「変わるならひの飛鳥山に」という部分にピンと来なくてはならない。もちろん第一回の舞台が東京の飛鳥山だからこのような要約がついているのだが、「ならひ」の「なら(奈良)」と飛鳥山とが掛詞になっているのだ。樋口一葉の小説は擬古文なので「ぬばたまの闇」や「しろたへの衣」などが出てくるのも仕方ないと思いながら読んではいたが、自ら雅俗折衷の文体が小説に最適であると『小説神髄』で述べている逍遥が「変わるならひの飛鳥山」はないだろうと思わずツッコミを入れたくなるのも実はこの小説の楽しみの一つ。(ちなみに掛詞については『小説神髄』下巻で「音韻転換」「意義転換」としてしつこく論じられているのがとてもおかしいのでぜひご一読を)

そのまま第一回の冒頭から読み進めるとますますその珍妙さに首をかしげたくなる。「さまざまに。移れば換る浮世かな。幕府さかえしころほひには。武士のみ時に大江戸の。都もいつか東京と。名もあらたまの年毎に。開けゆく世のかげなれや。」何だこれは。完全に七五調になっているじゃないか。しかも「あらたまの年」とふたたび掛詞。

改行もなく導入部の書生論がつづくかと思うと、段落が改まる箇所に「○毎度ありがたうお静に居らつしやいましの。愛敬をそびらにうけて。扇屋の店をたちいづるは」。この「○」はいったい何なんだ。この小説を通じて幾度となく登場するこの「○」は単なる段落の区切りではなく、場面転換などを示しているものらしい。現代人の僕らが使わない句読法である。

そして地の文が延々と続いた後、ようやく登場人物がしゃべり出す段になって「(吉)実に夕陽に映ずる景色は。また格別と言はざるを得ずです。園田さんいかゞです。」と書かれている。この「(吉)」というのは容易に想像できるようにこの台詞を話している登場人物の頭文字だ。この小説には引用符としての鉤括弧は一つも出てこない。直接話法の会話文はこの「(吉)」や「(園)」など、人物の頭文字を丸括弧でくくったもので識別される。こうした識別子さえない一葉の書式に比べれば合理的なのかもしれないが、まるで戯曲を読んでいるようで不思議な感じだ。

しかも律儀なことにこの「(吉)」という書記法は読者にとって話者の名前が明らかでないときは、書生なら「(書)」という風に固有名詞ではなく一般名詞の頭文字になっている。たとえば第二回では「(書)ヤ須河。君も今帰るのか(須)ヲヽ宮賀か。君は何處へ行つて来た(宮)僕かネ。」となっている。

最初の台詞は宮賀が話しているのだが、地の文に説明がないので読者にとってはまだ誰が話しているのかわからない。そのため書生の頭文字である「(書)」となっている。次の須河の台詞で話者が宮賀であるとわかるので「(宮)」に変わるというわけだ。この後もそれぞれの話す台詞の前には必ず「(宮)」か「(須)」がつくので混乱がなく、合理的と言えば合理的だが、やはり戯曲を読んでいるようでなんだか小説っぽくない。

今述べた宮賀と須河の会話にも登場しているが、もう一つ『当世書生気質』に頻出する珍妙な書式が翻訳つきの外国語である。ほとんどが英語なのだが、そのカナのふりかたが明治時代っぽくて面白い。上掲の「ブツク〔書籍〕」などは現代でいえば中学一年生レベルなのでまあ出てきてもおかしくないと思うが、第一回に登場する「ウバライヤテイ」。何のことかおわかりだろうか。正解は「variety」だ。本文では「ウバライヤテイ〔変化〕」という訳語部分に「いろいろ」というルビがふってある。

この「ウ」というのがなかなか気が利いている。中学生のとき英語の「r」を発音するときに「r」の前に「ウ」と発音すれば発音しやすいよ、とアドバイスされたことはないだろうか。「v」も発音しようと思えば唇をすぼめざるを得ないので、たしかに直前に「ウ」を発音した方が発音しやすいといえばしやすい...といった配慮があったのか、それとも逍遥が東京大学で教鞭を受けていたお雇い外国人教師の発音が、逍遥の耳にはそのように聞こえただけなのかは定かでない。

他に登場する外国語をいくつか引用してみよう。「アイデヤリズム〔架空癖〕」「ウヰイクネツス〔未練〕」。ちなみにこの「weakness」は第四回の小町田という書生の独白中に現れるが、内面も何もない薄っぺらな書生群像にすぎないこの戯作小説の中で、唯一逍遥が内面を描写する寸前までたどりつけている登場人物である。もし小町田が読者の感情移入を許すもっと魅力的な若者として描かれていれば、この小説は「失敗」と評価されることはなかっただろう。

あとよく分からない書式は、欄外の囲みにある筆者自身による注釈である。たとえば第三回の守山、小町田の対話の途中に次のような注釈が欄外の囲み記事として登場する。「『イー、ブロツクス、イー、ストンス』とは汝木石にひとしき輩ヨといふ事にてシエイクスピヤといふ英国の狂言作者の台帳のうちにある台詞なり」。必ずしも外国の文学に明るくなかった当時の読者に向けた親切な解説といえる(ちなみに『ジュリアス・シーザー』一幕一場「You blocks, you stones, you worse than senseless things!」からの引用)。

ちなみに翻訳といえば第十二回、書生の山村が書店から翻訳の仕事をもらったが1ページ10行20字で「トエンチイ。フハイブ〔二十五銭〕」という約束で「ツウチイプ〔あんまり廉い〕」からというので、いかに原稿の枚数をかせぐかを友人の継原と話し合う箇所がなかなか笑える。継原が山村の訳しかけの原稿を読んでみる部分...

「(継)ヤア随分乱暴な翻訳だな。エートなんだ○是ニ因ツテ之ヲ観レバ。倍審裁判〔ジユリイ〕トイフ制度ノ。因ツテ以テ原因セシ所以ノ道理ハ。蓋シ遠隔ナルサキソン時代ノ。王政ノ頃ニアリシヤ。決シテ疑フ可キ事ニアラザルナリト。余輩ガ信ゼザルヲ得ズ。ト断言セザル可ラザル事トイフ可シ○ハヽヽヽヽヽ。イヤニ冗長な曲りくねツた。変に読みにくい文章だなア。羊のはらわたよろしくたア。かういふ文体をいふンだらう。なかんづく「因ツテ以テ原因セシ所以ノ道理なんざア。実に重複きわまるじやアないか。ナゼこんなに文をのばすんだらう。反語ばかしいやに重なって。読みにくくツて解りにくゝツて。是じやア素人にやア解りやアしないゼ(山)ハヽヽヽヽ。ぶつゝけがきだものを。文はどうせ無茶苦茶さ。しかし長くしたはこつちの策さ。反語を沢山つかツたり。同じ事を繰返していりやア。骨がちつとも折れないでもつて。すぐに一枚だけ出来るだらう。何々せずんばあるべからざるなりとか。それ然りあにそれ然らんやなどとやつて居ると。十行二十行は二十分位に。一枚かけツちまふ。是之をeconomy of labour〔ほねをりの倹約〕といふ(継)ヤレヤレ。こういふ翻訳者の手になつた。翻訳書を買ふ奴はみじめだ。」たしかにみじめである。

また各回の末尾に作者のエクスキューズがついている場合があって、これも面白い。たとえば第三回の最後には「作者曰く本編中に写しいだせる書生のごときはおほむね書生界の上流を占むるものなり故にその語らふ所もやや高尚なる所ありて今日市中をわたりあるくガラクタ書生とは大いに異なり勿論右様の書生輩は官立大学の学生に多く私塾の生徒には稀なるものなり私塾の書生輩の情態のごときは陋猥にして野卑ほとほと写しいだすに忍びざるものあり故に余はことさらに上流の風儀を写しぬ活眼家さいはひに咎むるなかれ」とある。国立大学に比べて、私立大学の学生は随分バカにされたものだ。

最後にこの小説は、原稿を取りに来た出版者の小僧が、筆者に物語の不備を指摘するところで終わる。筆者である「春のやおぼろ」はいい加減な言い逃れをするが、小僧は傍白で筆者にツッコミを入れる。「(小僧)ヘン隠居めイ。負惜みをいやアがらア。」これがこの小説のオチである。こんな下らないオチのために文庫本にして250ページはあろうかという小説を読んでいたのかと思うとバカらしくてもう笑うしかないのだが、良き読者に恵まれなかった近代小説の産みの苦しみが戯作もどきの『当世書生気質』に皮肉にもよく表現されているということなのかもしれない。