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![]() 自己中心的物語生産構造 ( 20040801 ) ジャック・ラカンの『セミネール』を読むことから始まって、数か月前から精神医学関係書を集中的に読んでいたのだが、これまでまったく知らなかった統合失調症やアスペルガー症候群についてのごく基本的な知識を得られたものの、さらに深く勉強するにはあまりに専門書の値段が高すぎるということもあり、同時に、ジャック・ラカンも含めフロイトの精神分析に端を発する力動精神医学が、医薬品の技術革新に比べると心の病の治療にじっさいには微々たる貢献しかはたせなかったことを知って、ラカンを読み続ける気もなくなり、そろそろ自分の読書傾向がふたたびノンフィクションからフィクション・モードに切り替わるのではないかと感じていたところに、『世界の中心で、愛をさけぶ』が出てきてしまった。 このように息の長い一文で導入すると、僕がよほどこのベストセラー小説に感動したのだろうと誤解されかねないが、まずこの本を手に取った経緯から説明しておくべきだろう。といっても単純なことで、毎週末、BGMがわりに付けっぱなしにしてある『王様のブランチ』で同じ局で放送されているドラマ版の『世界の中心で、愛をさけぶ』の予告編が流れたということだ。 この手の「切ないドラマ」というのは、見る前から明確に「泣く」ことだけを目的として消費される商品である。ちょうど恐怖映画が「恐がる」こと、ポルノ映画が「性的興奮を得る」ことを見る前から期待されてのみ見られるのと同じことだ。だからこの手のドラマや恐怖映画、ポルノ映画に対して、思想性がないとか、テーマ性がないなどといった非難をあびせるのはまったく的外れで、「切ないドラマ」はいかに観客を泣かせるかに徹底して取り組むべきだし、恐怖映画はいかに観客を恐がらせるか、ポルノ映画はいかに欲情させるかに専心すべきなのだ。そしてそれらの作品に対する評価は、どれだけ泣けるか、どれだけ恐いか、どれだけそそるかという点だけについてなされるべきである。 だから、ドラマの原作になっている片山恭一著『世界の中心で、愛をさけぶ』(小学館)についても、いかに泣けるかという点についてだけ評価するのがフェアだと言える。 もっとも仮に著者が「テレビドラマや映画はさておき、原作の小説は読者を泣かせるために書いたわけではない」などといっているのだとすれば、単なる駄作である。お涙頂戴ドラマ以外の要素は、この小説にほとんどないからだ。ひと昔前にもベストセラー恋愛小説として村上春樹著『ノルウェーの森』というのがあったが、恋人を失った男性の喪失感を独白し、それを「存在への問い」のようなちょっと哲学的なレベルにまで深めるには『世界の』は物理的にページ数が少なすぎる。 ただ、いかに泣けるかという点についてだけ評価したとしても、小説版の『世界の中心で、愛をさけぶ』は泣けない小説だ。じっさいに僕がこの小説を読んでかなりグッときたことは間違いないが、それはこの小説によってというよりも、古本屋で見つからず正価で購入したのだから、感動しなきゃ損だと考えて、小学生のころ付き合っていた、将来結婚するものと信じて疑わなかった恋人のことを一生懸命思い出し、さらにその恋人がもし『世界の中心で、愛をさけぶ』の少女と同じように白血病で死んでいたら自分はどうなっていただろうかなどと、想像をたくましくしてようやくグッときたという事情だ。 要するによほど読者側が努力しないと泣けない小説なのだが、そんな小説がなぜ『ノルウェーの森』以上のベストセラーになってしまうのかと言えば、最近の音楽CDの売れ方や『バカの壁』と同じ理由だ。「良いものだから売れる」のではなく、売り手が最初に猛烈に販売促進を行って、ある程度のボリュームが売れ始めると、消費者が「売れているんだから良いものなのだ」という勘違いを起こし、じっさいの購入行動におよび、以下、その結果としての売れ行きがさらに「良いものなのだろう」という消費者の勘違いを強化していくという、良循環(というか悪循環)がベストセラーを生み出す構図である。 ただ映画は原作の小説に対して新しい物語が付け加わっているらしいという情報を仕入れたので、僕は凝りもせずに映画版のノベライズである益子昌一『指先の花』(小学館文庫)も読んでみた。こちらは\500足らずでお財布へのダメージも少ない。なお益子氏は映画版の脚本家である。 職業としての脚本家が書いた物語のわりに、書き方は本当にひどくてぞんざいである。主人公の律子が一日のうちに何回ため息をついたかなど、まったく無意味な細部の描写には、読んでいるこちらが恥ずかしくなって笑ってしまう。昨今、物書きとしてプロになるために必要なのは、技術力ではなく世渡りの能力であることがよくわかる。 結局この追加の物語を読んでも、やはり泣けるようなことはひとつもなかった。原作の小説は、主人公の朔太郎はなんら劇的な展開もなく、アキと交際を始め、なんら劇的な展開もなく高校生までずるずると交際し、アキが突然白血病にかかって死んでしまうというだけの物語だ。朔太郎と周囲の友人たち、アキ、アキの両親、朔太郎の親族の間には、何の対立も不協和もない。すべてが最初から最後まで大した波風も立たず調和しており、そのなかで一人の少女が白血病で死んでいったというだけのことだ。こんなにサービス精神の欠如した恋愛小説も珍しいのではないか。『冬のソナタ』はまだ見たことがないのだが、いろいろなところから漏れ聞く限りでは『冬のソナタ』の方がよほど泣かせる物語として消費者に対するサービス精神に満ち溢れているはずだ。 益子氏の映画版脚本は、そこに朔太郎と律子の不協和を持ち込んだ点のみで評価できる。九歳の律子は自分の母親が入院していた病院で偶然、白血病で入院中のアキと知り合い、アキの恋人とのカセットテープを媒体とした「交換日記」の配達役を引き受けることになる。律子の母親はその病院で息を引き取るのだが、母親が死んだその日、アキから託されたカセットテープをいつものように高校にあるアキの恋人の下駄箱へ配達するのを忘れてしまう。実はそのカセットテープはアキからその恋人への最後のメッセージだった。 九歳の律子はアキがその後どうなったか知らずに大人になるが、なんと十七年後、律子が新宿の飲み屋で知り合い、同郷ということから距離を縮めて結婚を決意した相手はアキの恋人だった朔太郎なのだが、律子はそのことを知らない。律子は朔太郎の心にぽっかり空いた穴の存在に気づきながら、その原因を量りかね、マリッジブルーになっている。 律子は朔太郎との新居へ引っ越そうと実家の自分の部屋を片付けているときに、アキから託されたカセットテープを十七年ぶりに見つけ、帰郷してこのテープをアキに返すことで、朔太郎との結婚のための心の整理をつけようとする。ところが帰郷した先で、律子は自分が結婚しようとしている朔太郎こそが、アキの恋人であり、アキは白血病で死んでおり、自分が配達し忘れたカセットテープはアキから朔太郎への最後のメッセージだったことを知る。 片山恭一の原作に比べると、益子氏の付け加えた「律子の物語」は、超ご都合主義をベースとするお涙頂戴恋愛ドラマの非常によくできた模範例ではないだろうか。自分の母親が自分の婚約者の元恋人と同じ病院で死んだというのはまずありえないし、結婚の直前までそのことが発覚しなかったというのも不思議な話だし、配達し忘れたテープが最後のメッセージだったというのも出来すぎだし。しかしだからこそ、泣ける恋愛小説は泣ける物語たりうるのだ。 その意味で益子氏は『世界の中心で、愛をさけぶ』の原作をかろうじて映画化できるに足るお涙頂戴ドラマに仕立て上げることに成功しており、逆に言えばそうでもしなければ、映画にならなかったとも言える。片山恭一の原作はそれくらい中途半端な小説なのだ。 ただ、益子氏の付け加えた物語も、単に朔太郎と律子の間に一時的な溝を追加しただけで、律子が秘密を知った後の後半部分は、単なる熱愛カップルのオーストラリア旅行記、かなりだれた展開だ。どうやらテレビドラマにはさらに、朔太郎とアキの両親との確執という不協和をもちこんでいるようで、Yahoo!JAPANの映画評なので映画よりもテレビドラマ版の評判がいいのもうなずける。 こうして原作に対してどんどんと新しい物語が追加されながら、ますますお涙頂戴ドラマとして成長していっている過程を見ると、片山恭一の原作の唯一の長所が見えてくる。たとえば『竹取物語』が現代にいたるまでさまざまなバリエーションを生み出しているように、片山恭一の原作は物語の最初の種として必要なシンプルさ、そっけなさ、未完成さを持っているという点だ。 冒頭にも書いたように、僕は自分の失恋の思い出を総動員しなければこの原作にグッとくることさえできなかった。逆に言えば、読者に自分自身の物語を付け加えることを強いるような、未熟さを、片山恭一の原作は持っていたことになる。もしかするとそのことも、大ベストセラーになった一因かもしれない。今の若者は、他人の書いた物語ではなく、たとえ陳腐でばかばかしい物語であっても、自分自身の物語を作り出し、はしなくもそれを大真面目に演じることに、自己満足を得ているのかもしれない。片山恭一の原作はその素材として好都合な未熟さを備えていたのだろう。 無断転載禁止
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