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真に恐るべき悪意
( 19980115 )

Japanese/English

文庫化されてからもベストセラーを続けている話題の小説ということで、成人の日の暇つぶしに読んでみたが、残念ながらこの小説は僕のような読者のために書かれた作品ではなかったようだ。一般的に好評を得ている作品に難癖をつけるのははばかられるが、正直いってホラーと言いつつこの小説の何が恐ろしいのか、よくわからなかった。

角川書店のコピーによれば「脳髄から湧き上る究極の恐怖」となっているが、読書でそれに近いものを感じたのは、たとえば村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」、映画ではアンジェイ・ワイダの「地下水道」、スタンリー・キューブリックの「博士の異常な愛情」などである。

この「リング」作品で僕が恐怖を感じたのは2個所。そのひとつは、物語が始まってまもなくの問題のビデオテープの描写である。恐怖の本質は「わけがわからないこと」にあるが、いきなりこのビデオテープの描写を読まされては、たしかに読者は恐怖を感じざるをえない。

しかし、それに続く部分は、すべてこのビデオテープに関する謎がきわめて合理的に解明されていくプロセスに割かれている。最終的にこのテープの作成者そのものの(まだお読みになっていない方のために詳しくは書かないが)の、不合理な怨念とは程遠い、きわめて合理的な意図が明らかになる部分が、この小説の「哲学的」なテーマである「悪の偏在」論とあわせてクライマックスになっているようだが、「なるほど鈴木光司という人はうまく考えたものだ」という感慨しか抱けない。

思うに、僕らが本当に恐れるべき悪は、徹底した非合理性であるが、この小説は一本のビデオテープに秘められた強力な悪意を描こうとしながら、その悪意があまりに合理的にできているために、それほど恐ろしくないという落とし穴にはまっている。ミステリーファンにとっては、その「謎解き」こそが読ませどころになるのだろうが、だとすればこの小説はホラーではなく、探偵小説である。「悪の偏在」や「強大な悪」を描くホラー小説としての試みは、それほど成功しているとは思えない。

その失敗の原因のひとつが、鈴木光司の文体が、悪を描くにはあまりにねじれがなく素直すぎることにある。たとえば、狂言回しである浅川の心の中での独白として、「両親の反対もなく結婚し」と書いてしまう部分。一編でも小説を書いたことのある人なら、既婚の登場人物の平凡さを強調するために一度は使っただろうクリシェだが、こんなクリシェは筆者の期待どおり、読者が浅川に感情移入することを妨げるだけだ。

そして、凡人の浅川と対比して描かれている、もうひとりの狂言回しである竜司だが、この人物の「悪意」もあまりにうすっぺらで、単になぞ解きのためのヒントを読者に提出するという機能的な役割しか果たしていない。

また、筆者はいともかんたんに人物Aの内的独白から人物Bの内的独白へと文章を切り替えてしまう。仮に筆者の描こうとした恐怖が、外側からの脅威ではなく、文字どおりウイルス性の、内面からの恐怖、「自分の中の他人」に対する恐怖であるなら、登場人物の内観を維持するためにも、思考の流れを記述する文の主語を、安易に人物Aから人物Bなどと切り替えるべきではい。それだけで物語の強度が半減してしまう。内面的な恐怖がさばさばと客観化されてしまい、恐くも何ともなくなる。

「自分の中の他人」ということを言い出すなら、だれが作ったか知れない「日本語」というものがなくては、一分たりとも生きていられず、考えることもできない自分をふり返ってみれば、その「日本語」という「他人」の方がよほど恐ろしいだろう。

おそらく筆者は、合理性の中に潜む悪意こそ最高の恐怖だと信じて、一貫して疑似科学的な謎解きを描いているのだろう。しかし、近代合理主義の産み落とした理性に飼い慣らされてしまった悪意に、すくなくとも僕は恐怖を感じることはできない。合理性と悪の対決は、そんなに素直なものではないはずだ。

たとえば、精神分析という学問は、それまで非合理なものとしか考えられていなかったさまざまな神経症の中に、隠れた合理性を発見した。また、レヴィ・ストロースなどの人類学者は、未開の土地にある一見非合理的な風習の中に、きわめて科学的な論理体系を発見した。

このような主知主義的な考え方は、それまで非合理で理不尽だと考えられてきたもののなかにも、ちゃんと人間の理性が働いていることを明らかにしてきている。一見何の脈略もないビデオテープに秘められた悪意の合理性が、次々にあばかれていくこの「リング」という小説は、そのような主知主義の歴史をもう一度エンターテインメントの形で展開しているのだと言える。

確かに、まず僕らは(単に小説のレベルの問題としてではなく)、そのような合理的な悪意を、たとえばアウトバーンの建設という公共事業を計画して失業率を激減させるというきわめて合理的な方法で権力を握ったナチスのような合理的な悪意を、見抜くだけの合理性を身に付ける必要がある。

その上で、僕らがほんとうに恐れるべきことがあるとすれば、まったく何の脈略もない、したがっておそらく「リング」のように起承転結のあるすっきりとした物語にさえならない、それについてただ口をあんぐりと開いて言葉を失うしかなくなるような、そんな悪意の偏在である。

そのような悪意に対峙したとき、ビデオテープをダビングするといったような合理的な対策は意味をなさない。実際、急進的民族主義や宗教紛争などは、合理性のレベルとは程遠いところで何万という人命を犠牲にしつつ世界中に「伝染」している悪意に満ちた「病原体」である。

「リング」の中で僕が恐怖を感じたもうひとつの個所は、小説の最後に浅川自身の悪意が語られている部分である。なぜなら、それが浅川の悪意とは断言できないからだ。だれも愛する人間の生命と、全人類の生命を天秤にかけることはできない。そのような選択に立たされた人間の感じる戦慄こそがほんとうに恐るべきものといえるのではないか。浅川がどちらを選択するとしても、僕らはそれに対してYesもNoも言うことができないだろうから。

僕らがほんとうに戦慄する悪意は、合理的に説き伏せられて解決をみる悪意ではなく、意思そのものであるような悪意、合理的に断罪することができない悪意である。浅川の決断はまさにそのような悪意である。作者がほんとうに描くべき恐怖の対象は、この浅川の悪意ともつかない悪意ではないか。

その意味で、動機の判然としない殺意にとりつかれる主人公を描いた、柳美里の「タイル」は、ラストシーンをのぞき一貫して主人公の内的独白のスタイルを取っていることとあいまって、真に恐るべき恐怖を描くホラーになっている気がする。

というわけで、僕はエンターテインメント小説の良き読者ではない。小説を「息抜き」と思うことができないもので...。



鈴木光司(すずき・こうじ)


1957年 浜松生まれ。慶応大学仏文科卒
1990年「楽園」で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞
「らせん」で吉川英治文学新人賞


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