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![]() 銀河鉄道の反復 ( 20050729 ) 二十年以上ぶりに『銀河鉄道999』と、その二年後に劇場公開された『さよなら銀河鉄道999』を観比べ、やはり小学生の僕には感じ取れなかったり、考えることのできなかった差異がたしかに存在する。 物語としての面白さから言えば、劇場版の『銀河鉄道999』は1998年に公開された3作目も含めると、確実に段々とつまらなくなっている。結局のところこの作品の物語としての面白さは、孤児である星野哲郎が大人へと成長する教養小説(アインビルドゥングスロマン)としての性質にある。 星野鉄郎は物心つかない頃に父親を亡くし、物心ついてからまだ子供のうちに目の前で母親を殺されている。このような不幸な経歴を持つ少年が、大都市のスラムの貧困の中で、孤児として独りで生き抜いていくために、子供らしい依存心や欲望を抑圧し、仲間を守るため、抽象的な価値観を守るために生きざるを得なくなるのは当然だ。 そのような貧しい孤児が、偶然に母親の代替物であるメーテルと出逢う。しかもメーテルの手助けを通じて自分の母親の仇を討つだけでなく、抽象的な価値観(=人間は限りある命をもつ生身の人間として生きるべきである)の実現を成し遂げる。 またメーテルはメーテルで、物心つかない頃に父親を亡くし、物心ついてから少女時代に母親と決裂しながらも、母親に従わなければならないという矛盾した母子関係に置かれている。そのため鉄郎と同じように、母親に対する子供らしい依存心や欲望を抑圧し、機械化された世界という抽象的な価値観を守るために生きざるを得なくなる。 このように鉄郎もメーテルも、実の母親に子供らしく甘え、また、愛されるという経験を、ある年齢以降、完全に断たれてしまっている。子供らしい依存心の抑圧と、抽象的な価値観への献身という点で、二人はあまりによく似ているのだ。 こういう二人がひかれあうのは、そういった意味で当然であり、場合によっては完全に共依存の関係に入ることさえありうる。鉄郎はメーテルに思う存分甘え、メーテルは鉄郎に対して、母親が自分に注いでくれなかった愛情を注ぐ役割を果たす。逆に鉄郎は最後まで守ってやれなかった母親の代わりにメーテルを命をかけて守り、メーテルはそれを母親が与えてくれなかった愛情の代わりにする。 しかしここで実際に二人が共依存の関係におちいり、二人きりの日常生活を送り始めたら、ほぼ完全に自己完結した閉鎖的な世界が作り上げられてしまう。メーテルは鉄郎にとっての母親であり、メーテルは実際には存在しなかった理想的な母親の役割を自ら引きうける。永遠に自己同一性が反復される世界が構築されてしまう。 『銀河鉄道999』の物語の面白さは、こうした自己完結性を、鉄郎とメーテルがそれぞれ自覚的に拒絶する点にある。ところがこの拒絶は、ドラマとしては一回限りの事件としてしか成立しない。二人だけの自閉的な世界から、二つの孤独な世界への移行、ジャンプは、一回限りの事件であり、もう一回事件が起こるとすれば、それは後者から前者への逆戻りのジャンプでしかありえない。 したがって『銀河鉄道999』が持っている物語の構造からすると、星野鉄郎とメーテルをめぐる物語のクライマックスは、一度しかありえない。それは永遠の別れというクライマックスだ。そう考えると、二回目以降の劇場版がつまらなくなるのは当然すぎるくらい当然なのだ。 実際に『さよなら銀河鉄道999』も、1998年に公開された三作目も、鉄郎は地球上で相変わらず反逆者として戦い続けるはめに陥っている。子供らしい依存心の抑圧が完成されてしまった鉄郎という人格には、もう抽象的な価値観への献身という部分しか残らないのだから、当然といえば当然である。『さよなら銀河鉄道999』では、ふたたび機械化帝国の野望を打ち砕くための戦いに旅立つ。三作目でも、今度は何だか分からないが、やはり何らかの目的の戦いに旅立つ。今後、松本零士がたとえ四作目を作る気になったとしても、鉄郎はとにかく戦い続けるしかないのだ。 つまりは劇場版第一作が終わった時点で、星野鉄郎とメーテルをめぐる物語はその後の展開を失ってしまった。仮にどうしても展開させたいのだとすれば、もう一度自閉的世界へ逆戻りのジャンプをし直す展開しかありえない。そうすれば今度は三作目で再び、自閉的世界からの脱出のジャンプをする物語を展開できる。そうやって自己同一性の反復の世界から、差異の世界へ、差異の世界から自己同一性の反復の世界へと、ジャンプの行ったり来たりを繰り返せば、何作でも『銀河鉄道999』を続けていくことはできる。 そんなことを本当にやれば、実際にはほとんど犬も食わない夫婦喧嘩のような様相を呈するだろうことは間違いない。たとえば鉄郎が抽象的な価値観よりも、メーテルという一人の女性を守ることに生きがいを見出し、地球にもどることなく、メーテルの故郷であるラーメタル星で二人静かに生活を始める。一『銀河鉄道999』ファンとしては、そんな想像をすることはつまらないことではない。 そして僕らが実体験する日常生活というのは、むしろそういう風な展開になる。抽象的な価値観のために命も惜しまない現代人など存在しない。家族と作る小宇宙の幸福に自足するのが、現実の僕らである。現実の僕らは、子供のころ両親に愛される立場として経験した小宇宙を、いったんそこからの分離を経験した後、今度は自分が親として反復構成する。『銀河鉄道999』はその分離の部分だけを取り出すことで、物語として成立する、一回限りの物語である。 それでも永遠の誘惑というものは存在する。分離は一回限りであってほしい。その後に来る同一性の反復の世界、鉄郎とメーテルが擬似親子であり続ける世界が永遠に終わることのない物語の誘惑である。松本零士自身の倫理観は、決してそのような永遠を物語化することを許さないだろうが、本当にそれが反倫理的なものかは疑問である。 なぜなら、僕ら自身が日常生活で、命をかけるほどでもない仕事を通して生活の糧を得ているのは、まさにその永遠を実現しようとしてのことだからだ。小市民的な家族の小宇宙を維持しようとしてのことだからだ。『銀河鉄道999』はそのような自己完結的な小宇宙の否定によって、一回限りの物語として成立する。 ということは、そもそも二十数年ぶりに『銀河鉄道999』を観ることによって、そこから何か新たな感動を得ようとした僕のほうが間違っていたということになるだろうか。そもそも同一性の反復を拒否することで物語たりえている『銀河鉄道999』を、二度も三度も観ることで、現代の僕がいったい何を得ることができるのか。 メーテルが体現する母性的なものに、漠然とした思慕を抱いていた小学生のころの自分をなつかしく思い出す以外に、おそらく得るものは何もないのだろう。 無断転載禁止
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