愛と苦悩の日記にも書いたように、小さな情報サービス会社の入社1年目の一般職OLよりも大企業の入社5年目の男性総合職の方がボーナスが少ないというご時世になると、好きな本を選ぶにもまずチェックするのは定価という情けないことになる。
経営のまずい会社に就職すると良いことがない。就職活動をひかえた学生の皆さん、いくら売り手市場とはいえよく調べてから資料請求のハガキを出そうね。大企業だから安心という時代は本当に終わっているよ(経験者談)。
というわけで本当ならデリダ自身の「署名」入り書物の翻訳を読みたいのだが2000円という安さにつられて東浩紀氏の『存在論的、郵便的』(新潮社)を読んだ。フランスの思想家ジャック・デリダについての本格的な論文だ。
少し前にこのページで紹介した高橋哲哉先生(大学で講義を受けたことがあるので「先生」としておく)の『デリダ・脱構築』は一般向き解説書のシリーズとして出版されており、対象とする読者層も広めだ。
それに対して『存在論的、郵便的』はデリダだけでなくラカン、ドゥルーズ、サール、フロイトなども参照したハードな論文なので読者は限定される。にもかかわらず書店ではPOP広告付きの平積みになっていた。早くから東氏の仕事に注目していたという新潮社のまっとうな企業努力は尊敬に値する。
ただ、今の日本は知性をバカにしすぎる。サラリーマン社会では「わかりやすく」という言葉を毎日のように聞く。小難しいことを言う人間は会社では軽蔑される。話によると中高生の間でも状況は似ているようで、それが学生の理系離れの一因とも言われている。「わかりやすさ至上主義」のせいで製造業の屋台骨である技術力が揺らぎつつある。日本企業は自分で自分の首を絞めているというわけだ。
このページの読者からのメールにも「何ごとにつけ考えることからしか始められないのはおかしい」(実際には「おかしい」の代わりに差別用語が使われていたが)というものがたまにある。これだけ知性が軽蔑されている時代になお反知性を主張するのは、このページのあまりに主知主義的な文章への反発であろう。
しかしそう簡単に理性から逃れられるだろうか?たしかにポストモダン思想はロゴス中心主義を批判するけれど、それは素朴な反理性とはまったく違う。理性から逃れようと思えば、理性とは何かをまずハッキリさせる必要がある。理性を厳密に定義することは非常に理性的な作業のはずだ。
では理性の定義などせずに、霊感・ヤマ勘・第六勘(昔そんなクイズ番組があったような...)をたよりに生きれば理性から逃れたことになるのか?今はやりの「感じるままに生きる」ってヤツだ。でもこれは理性から逃げたのではなくて「理性から逃げる」ことから逃げたにすぎない。
逃げるということは実はムッチャ難しいことなのだ。今の例で、理性から逃げるために理性を定義しようとすれば、定義するという行為そのものが理性に基づいていることに気づくだろう。理性を定義すること自体が理性を前提としている。
この「ニワトリが先かタマゴが先か」的な状況は、明らかに理性の限界を示している。ところがハイデガーという哲学者が登場して、この袋小路を逆転の発想でみごとに解決してしまう。理性の限界に気づくことができるから、人間はすごいのだ、とハイデガーは考えたのだ。
つまり人間の理性には限界があるから袋小路に陥ってしまったのではなくて、袋小路を産み出せるのは人間だけだ、という逆転の発想。このハイデガーのスタンスを、東氏の論文では「存在論的」と呼んで、デリダの前期の仕事と対応させている。(なぜ「存在論的」と呼ぶのかはハイデガーの存在論を知っている必要があるのでここでは省略)
で、東氏はさらにこの「存在論的」という否定神学システムの限界をあばき、デリダがなぜ「郵便的」なスタンスを導入しなければならなかったのかを論じている。これが理解できれば、デリダが1970年代に書いた難解な書物群をある程度「理性的に」整理できてしまう。でも、ここがいちばんオイシイところなので書いてしまうわけにはいかない。ちゃんと本を買って読んで下さい。
ヒントは、郵便物が誤って届かなかったり、間違った場所に届いたりすることがある、という点だ。「理性とは何か」という問いが無限の循環に陥るのは「理性」という言葉がつねに僕らに「誤りなく配達される」ことを前提としているけれども、本当にそうだろうか?
ダメダメ。これ以上は書けない。ね、面白そうな本でしょ?安易に反理性を言う人たちは放っておいて、このページの理性的な読者の方々はぜひ書店に出かけて真っ白な表紙の『存在論的、郵便的』をご購入あれ。
ただこの書物の註に明らかな間違いがあったので、最後に指摘しておく。それは電子マネーについての東氏の解説(p.85)だ。東氏は電子マネーは偽造を防止するために「個々の電子マネーに暗号化したシリアル・ナンバーを添付する」必要があると書いているが、どうやら電子マネーというものをよく理解されていないようである。
電子マネーとは、言ってしまえば、今まで銀行内の専用回線にしか流れなかった決済情報がインターネット上に流れるようになるというだけのことで、東氏が書いているような大袈裟なものではない。東氏は紙幣の対応物がデジタル情報になって流れると勘違いしているようだが、流れるのは「田中さんの口座からマイナス5000円」という取引(トランザクション)情報だけである。つまり、ネットを流れるのは金そのものではなく、金の増減の情報。暗号化やデジタル「署名」が必要なのは、単にネットワーク経路でのデータ改変や成りすましによる犯罪を防ぐためである。
ただネットを流れる金の増減情報が金そのものの価値を規定するということになれば、まさにその増減情報こそ「分割されたシニフィアン」なのかもしれない。金利スワップなど元本交換のないデリバティブ取引で交換される金利というのも、シニフィエなき分割されたシニフィアンと言えなくもない。
「愛と苦悩の日記」にも書いたが、東氏は僕と同じ大学の同じ学部で1つ年下だ。その若さでこれほど立派な書物を上梓しているのに、僕はと言えば毎日しょ〜もないプログラミングばかりやって、ちょっと日刊京都経済にコラムを書いている程度。努力の足りない人間は日の目を見ないということのいい証拠だ。もっと努力せねば(なんて俗っぽい終わり方)。