think or die :
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ポリフォニックな物語装置
人類補完計画の対位法
1997/08/01

「新世紀エヴァンゲリオン」が提示する最大の謎は「人類補完計画」であろう。

エヴァンゲリオンに登場する「ゼーレ」などの組織や、綾波レイ、碇ゲンドウといった登場人物の各々が意図していた「人類補完計画」は、同一のものだったのか、あるいは最終的にはそのうち誰かの意図だけが実現したと考えるべきなのか。

劇場版「THE END OF EVANGELION」を見る限り、「人類補完計画」は最終的に碇シンジの意図にそって書き換えられたと考えられるが、その物語が他の組織や個人の意図に全く反するものであったとも考えにくい。

この点について、エヴァンゲリオンの物語装置において、誰が「狂言回し」の機能を果たしているかという観点がもっとも有用と思われる。

「狂言回し」とは、物語内部にあって、物語そのものについての注釈などを加えつつ、物語を進行させる役割を果たす登場人物のことである。おそらくギリシャ古典劇のコロスがその起源であり、後代に「狂言回し」が物語世界から抜け出し、その外部から物語を進行させる「語り手」へと発展していく(このあたりはナラティブの専門家に任せた方がいいだろう)。

アニメや特撮作品など、物語世界でしか通用しない「専門用語」が頻出するような作品には、たいてい「狂言回し」役を果たす登場人物が現れる。

たとえばウルトラマンシリーズで、地球上に初めて現れたはずの怪獣の名前を、科学特捜隊の隊員が「バルタン星人だ!」などと叫ぶというケース。漫才のネタにもなる明らかな矛盾だが、登場人物の誰かが「バルタン星人」という名前を知らなければ物語は前に進まない。

もうひとつの方法は、謎の怪獣が現れたときにナレーションが割り込んで、「これはバルタン星人と呼ばれる宇宙人である」と解説するやり方。「狂言回し」が物語世界の登場人物であるのに対して、ナレーターはいわば「天の声」、物語世界の外部から介入する「語り手」といえる。

推理小説が成立するのは、作者が犯人を知っているからだ。このごく当たり前の事実の前提となるのが「狂言回し」「語り手」という物語装置である。このような物語装置が存在するからこそ、事件の解決という終局に向かって物語りは収斂していく。

しかし、エヴァンゲリオンの物語装置に、果たして「犯人」を知っている人物が存在するのだろうか?

その問いに答えるために、エヴァンゲリオンにおける「狂言回し」「語り手」が誰か?ということを考えてみよう。

エヴァンゲリオンの物語の大半で、観客にいちばん近いところで「狂言回し」の役割を果たすのは、言うまでもなく「ネルフ本部」である。第一使徒の登場からサードインパクトにいたるまで、ネルフ本部の冬月・伊吹らが目前で進行しつつある物語に対してひとつの解釈を与える。

これがなければ、観客は今現れたのが使徒なのか?アスカが展開したのが「強力なA.T.フィールド」であるのか分からずじまいである。

伊吹マヤが、脇役にもかかわらず人気を集めているのは、エヴァの観客の大半が男性であり、女性キャラクターなら誰でもいいという無節操さだけでなく、そういった「狂言回し」役の中でも、エヴァの特殊な物語世界から最も遠く、観客の常識的な反応に最も近いという理由もあるだろう。

また、ゼーレのメンバーもまた「狂言回し」の役割をある程度果たしている。しかし「人類補完計画」の解釈について、ゼーレとゲンドウは食い違っているようでもある。

最終的に原作者である庵野監督自身が、そのうちある解釈が唯一の真実であると決定しているかどうかは、あいまいなままである。

ゲンドウの思い描いていた「人類補完計画」は、最後のところでユイの裏切りによって頓挫したらしいということは分かる。しかし、そのユイの(?)意図した「人類補完計画」がゼーレの意図に完全に一致しているかというと、そうでもない。

また、最後にはユイの意図した「人類補完計画」さえも、シンジが他者の絶対的な他者性を受け入れることで中断されているようである。

このように見てくると、エヴァンゲリオンの物語の構造は、それだけが唯一の真実である物語が中心に存在して、他の物語はそれをめぐる勝手な解釈であるという風にはなっていないことがわかる。

ゼーレはゼーレにとっての「人類補完計画」を完遂し、ゲンドウもまたそうである、伊吹マヤは赤木リツコの胸に抱かれて鳴咽するまでの「人類補完計画」を生き、そして観客もやはり自分自身の「人類補完計画」を体験する。最後に、おそらくは庵野監督自身も監督自身の「人類補完計画」を発動する。

唯一の真実の結末に向かって収斂していく物語ではなく、物語内部の登場人物さえもが、各々の真実に向かって拡散していく物語。唯一の「語り手」「狂言回し」が物語を運ぶのではなく、各々が自分自身の物語を語るような物語構造。それが、エヴァンゲリオンの多産的な物語である。

TV版エヴァンゲリオンの視聴者の多くは、収斂する唯一の物語、つまり、さまざまな登場人物の奏でる旋律が、唯一の巨大な和音を作り上げるような、シンフォニックな物語を期待し、それゆえに最終話で当惑せざるを得なかった。

視聴者の当惑の原因は、視聴者の多くが最終話の結末を、監督がエヴァンゲリオンに与えた「唯一の」結末であると信じ込んでしまったことにある。実際には、最終話の中でシンジ自身が繰り返しているように、あの最終話はシンジにとっての「人類補完計画」のひとつの「可能な物語」でしかないのだ。

たかだかひとつの可能な物語を提示するというのが、クリエイターである庵野監督の「現実」に対する謙虚さ、どこか知れないところに存在するかもしれない「絶対の真実」に対する謙虚さなのである。

J・P・サルトルが「実存主義とは何か」の中で、「私はどうするべきでしょうか」と問われた場合、自分にできるのは、その人自身にいくつかの選択肢を書いてもらって、そのなかでどれが最善策かを示すことぐらいだ、と言っているのと似ている。

庵野監督も、自分に提示できるのは、自分自身の相対的な真理でしかない。それは無責任さではなく、真理に対する、他者の絶対的な他者性に対する謙虚さなのである。他人にとって何が本当のことかをその人に代わって決めることなど、誰にもできないという謙虚さである。

それでも絶対的な真理を庵野監督から引き出したかった観客は、劇場版の結末にも当惑することになるだろう。

飽くまで「人類補完計画」の謎は、登場人物の一人ひとりの旋律が、粒立ちながらもからみあっていくという、ポリフォニックな真理を表現している(ちょうどパッヘルベルのカノンのように)。

劇場版でも庵野監督の絶対的な真理への問いは、そのまま観客に返されている。私の「人類補完計画」は私が演奏を始めなければならない。庵野監督に期待できる最低限のことは、おそらく、そうして演奏され始める無数の旋律が、美しい対位法をなすであろうということだけなのではないか?