松浦理英子『親指Pの修業時代』(河出文庫)を読んだ(三十三回女流文学賞受賞作)。
ほんとうは彼女の最新刊で、『親指Pの修業時代』を書く以前のエッセー集『優しい去勢のために』(ちくま文庫)を読むつもりだったが、以前、大学の女友だちが「なんか気持ち悪かった」と評した長編を先に読んでおくべきだろうと思い直した。
平凡な女子学生がある日昼寝から目ざめると、右足の親指がペニスになっていた、というところから始まる奇想天外なお話しだ。作者がこの作品で何が言いたかったのかは、文庫版下巻の巻末に作者自身によるサービス精神たっぷりの解説があるので一読いただきたい(ただ、この解説だけ読んだら、かえって分かりにくいかも)
ここでは、例によって僕が個人的に感じたことだけをつらつらと書くことにする。
僕は松浦理英子の他の小説(『葬儀の日』『セバスチャン』『ナチュラル・ウーマン』)も読んでいるが、『親指Pの修業時代』は、彼女が他の小説では凝縮しすぎて一般の読者に伝わらなかったことを、ていねいにかんでふくめるように展開したものだと考えた。
『ナチュラル・ウーマン』はレズビアン小説だが、あまりに端的に彼女のスタイルが現れているので、たぶん一読してもピンとこない読者がほとんどだろう。僕もこの『親指Pの修業時代』を読んで、はじめて溜飲が下がった思いがした。
『親指Pの修業時代』では、ごくごくふつうの恋愛観に何の疑問も抱かず、ふつうに同年代の男性と交際している女子大生が主人公になっている。一般的な読者が感情移入しやすいように、松浦理英子はごていねいにもそのような道具立てをしてくれているのだ(小説家としての成熟が、読者への配慮を見せる余裕を生んだということか?)。
そして、そんなごく平凡な女子大生が、右足の親指にペニスを持ってしまったことによる、周囲とのズレ、心理的な葛藤が、丹念に描かれている。その緻密で冷徹な描写には、ひじょうに説得力があるし、男性読者の僕でさえも思わず感情移入させる力がある。
たとえば、これは僕も個人的につねずね滑稽だと思っていることだが、「1回のセックスは男性の射精で終る」という社会通念がある。セックスはいわば「物語」であって、はじめと中と終りがある。はじめは前技、中はピストン運動、終りは射精というわけだ。
しかし、男性が射精する必要はどこにもない。女性がオーガズムに達した時点で「終り」になってもいいわけだし、2人とも登りつめなくても全然OKのはず。ところが僕らは男が射精しなきゃ「1回」終った気分にならないと思いこんでいる。これはちょっと考え直せば、滑稽な話しだとすぐにわかる。
そんな風に、今まで当たり前と思っていたけれど、ちょっと考えてみればこっけいだという性愛観に、主人公の一実はすこしずつ気づいていく。たぶんこの小説の白眉は、第13章で主人公の一実がはじめて自分の親指ペニスをつかって、映子という女性と性交する場面だろう。この章に、作者のメッセージが美しく凝縮されている。
そのメッセージを、下巻巻末の作者自身の解説から引用する。
私がこの小説において読者に与えたかったのは、性器的な快楽ではなくて、非性器的な快楽なんです(中略)。好きな人と抱き合ったり手を繋いだりじゃれ合ったり、あるいは接吻したり、必ずしも性行為に結びつかない、性器的な欲望に導かれて起こるわけではない、好きな人と軽くスキンシップすれば非常に気持ちがいいというような皮膚感覚的な快楽の方を読者に与えたい。
実は、松浦理英子はもう一つのメタファーを隠し持っているが、それはぜひみなさんにこの小説をじっさいに読んでいただくことで探し出してほしい。恥ずかしながら、僕は最後まで気付かなかった。
いずれにせよ、この小説は読む人に、いかに自分のもっているセクシュアリティーの観念が貧困で、ステレオタイプで、TVや雑誌や(男の場合、アダルトビデオや)に毒されて、豊かさを失っているかに、イヤというほど気付かされるだろう。
人が人を愛するときには、個性の数だけさまざまな愛し方がある。そんなごく当たり前のことに到達するにも、松浦理英子のような強力なメッセンジャーなしにはすまされないほど、僕らの頭はなまくらになっているようだ。