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エッセー集

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亡くされた者からの問い

是枝裕和監督『誰も知らない』

2004/08/14

今年、2004年のカンヌ国際映画祭で主演の柳楽優弥が史上最年少で主演男優賞に輝いたことで話題になっている『誰も知らない』を観た。是枝裕和監督の映画は二度目で、劇映画第一作の『幻の光』(1995年)を観ている。なぜ『幻の光』を観に行ったのかはよく覚えていない。名古屋に住み、年間数百本の映画を観ていたころなので、偶然そのうちの一本として紛れ込んだのだろう。きっとこのWebサイトに批評を書いたはずだと思い、探してみたのだが見当たらない。1995年にはこのWebサイトの前身である「水のテマティック」を既に開設しており、その頃の映画日記はこのWebサイトに確かに残っているにもかかわらずだ。

『幻の光』では、舞台となっているさびれた漁村に不釣合いな洗練された衣装が鼻持ちならず、映画そのものを観るどころではなかった。その消化不良を宮本輝の原作を読むことで解消しようとしたが、さして効果がなかったのも覚えている。当時の僕は会社員になったばかりで、孤独ではあるがゆっくりと時間の流れる幸福な大学生としての生活から一転、話の合わない無粋なサラリーマンたちの中に放り込まれ、ただ孤独と無力感を生きるしかなくなっていた。そのせいで『幻の光』の主題の重さに比べて洗練されすぎている是枝監督の映像に腹立たしささえ抱いたのかもしれない。

同じ1995年に、僕は若松孝二監督の『Endress Waltz エンドレス・ワルツ』という映画を、今はおそらく閉館してしまっているだろう名古屋駅前の小劇場で観ている。このこともエッセーとして書いた記憶があるが、やはり「水のテマティック」時代のことだったようで、現在のこのWebサイトには見当たらない。しかしこの映画にまつわる想い出はとても大切なので、これを機会に書いておきたい。喪失についての物語という意味で『誰も知らない』と無縁ではないという理由もある。

『エンドレス・ワルツ』は伝説のサックスプレーヤー阿部薫と鈴木いずみの破滅的な恋愛を描いた暗澹たる映画で、阿部薫は町田町蔵(町田康)、鈴木いずみは僕の好きな女優の一人である広田玲央名が演じている。途中、薬物で幻覚を起こした阿部薫が自分の足の親指を包丁で切り落とすシーンで、僕は気分が悪くなって女友達を残して映画館を出てしまった。

いま「女友達」と書いたが、彼女とはこの映画を観た日が初対面で、二度と会うことはなかった。ふつうに考えれば「友達」とは呼べない彼女をあえて「友達」と書くのは、彼女が僕にした話の内容のせいだ。

映画館に入る前、僕らはジュースを飲みながら話し込んでいた。今は家電の量販店になってしまったが、当時は名古屋駅前に「生活創庫」という、東京で言えばロフトや東急ハンズのようなビルがあった。その地下に、広い座席フロアをさまざまな軽食店がぐるりと囲んでいる、ビュッフェ形式の安いレストラン街があり、そこであまりおいしくない夕食を食べた後、ジュースを飲んでいた。

何を話したのかは詳しく思い出せないが、彼女は当時の僕よりもさらに若かったにもかかわらず、こちらのヌーベルバーグやネオリアリスモの話にもついてこられるほど映画に詳しく、久しぶりにフランス科時代のような「話せる」友達を得たことで僕は内心高揚していた。やつれているという表現をあててもおかしくないほど華奢で、話し方が繊細だったことも僕の気に入っていた。

ジュースを飲んでいると彼女が不意に、「大切な人をなくしたことがありますか」とたずねた。映画の台詞のように聞こえるかもしれないが、これは本当に彼女が言ったことだ。「えっ」と当惑してから僕は、思い当たることがないわけではなかったが、「まだない」と答えた。すると彼女はついこの間、妹を病気で亡くしたのだという話を始めた。

話しながら彼女は静かな笑顔をしていた。僕はただ絶句するしかなかった。このことを笑顔で話せるようになるまで、彼女が流さなければならなかった涙の量を思って。そして、それでもなお、ついさっき知り合ったばかりの、ほとんど他人同然の僕に打ち明けなければならないほど、彼女の胸がいまだに妹を失ったことでふさがれていることを思って。

しかも彼女が僕と知り合ったのは、不特定多数の男女が電話で恋人をさがすいかがわしいサービスを通じてだ。映画のことで話が合ったとはいっても、相手は腹の中で何を考えているか知れない大人である。おそらく彼女にとってこれまでの人生でもっとも悲しかった出来事を、その最期の会話に至るまで話す相手として、そんな行きずりの人物がふさわしいと言えるだろうか。

それでもやはり彼女は出来事の重みの一部分を、誰でもいいから預けずにはいられなかった。それはいわば彼女自身が妹にかわって生き延びるためのぎりぎりの試みだったのだろう。そうしなければ自分自身が喪失の重みに耐えかねて、生きることが難しくなっていたかもしれない。彼女の妹はきっと、何らかのかたちで、彼女に生き続けることを使命として託したに違いない。姉に向かって語りかける言葉ではなく、妹としての無邪気な将来の夢を語る言葉によってだったかもしれない。たとえば、「飛行場で飛行機が見たい」といったような。

気分が悪くなって途中で劇場を出た後、僕は真冬の夜空の下、缶コーヒーで体を温めながら彼女を待っていた。映画が終わって館内から出てきた彼女に中座したことを謝ったら、彼女は変わらず静かな笑顔をしていた。その笑顔を見た瞬間に、彼女が僕に預けようとした喪失の重みのほんのひとかけらにも耐えられなかった自分を恥じた。そして、彼女にとって僕が所詮は他人であると感じた。

映画『誰も知らない』は、『幻の光』を観たことしかなかった僕が危惧していたような鼻持ちならない洗練とは一切無縁の、きわめて簡素だが、綿密に計算されたフレーミングが素晴らしい作品だ。回転遊具の内側から主人公とその弟の笑顔をとらえるカットは、それだけで涙が流れた。

脚本も書いている是枝監督は、実話をベースに、実際には起こらなかった「それ以降」の子供たちだけの生活も描いている。子供たちの世界と外界の境界線とその崩壊を描くために、一つひとつの細部が奇跡のように巧妙にシーケンスに織り込まれている。子供たちの行動に一貫して流れる倫理性は、パンフレットの中で黒柳徹子がコメントしているように、キアロスタミ作品に登場する子供を想起させる。

倫理性が自分自身への問いとしてはねかえってくるのは、つねに何者かを亡くしたときだ。主人公は羽田空港で妹との約束を果たすことによって、その問いに答えようとした。あのとき名古屋で知り合った彼女は、行きずりの大人に妹の死の重みを預けることで、その問いに答えようとした。では僕はどうやってその問いに答えればいいのだろうか。



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