この夏の邦画興行収入の上位二位を占めている映画を観た。宮崎監督の「もののけ姫」と、庵野監督の「新世紀エヴァンゲリオン」である。
言うまでもなくこの2本のアニメはまったく毛色が違う。
まず客層が違う。「エヴァ」の観客が10代なかばから20代の若者(多くは男性)であるのに対して、「もののけ姫」はほとんどが子供づれの家族である(残念ながらうるさくて映画に集中できなかった)。
また、マスコミや一般人のとらえ方が違う。僕の会社の同僚が「エヴァ」の観客について「みんなコスプレで観にきてるの?」と、凡人ならではの偏見に満ちた質問を投げかけたことにも現れているように、「エヴァ」は一部のマニアだけのものと思われている。
それに対し、宮崎アニメは手塚治虫の正統の系譜であり、大人から子供まで楽しめる作品であると思われている。
この違いはどこにあるのか?ぼんやりと考えながら「もののけ姫」のパンフレットを読んでいて、非常に奇妙なことに気づいた。
パンフレットの最初に宮崎監督自身による「荒ぶる神々と人間の戦い」という文章が掲載されているのだが、「従来」という言葉が二度使われている(以下引用)。
「従来の時代劇の舞台である城、町、水田を持つ農村は遠景にすぎない」
「従来の時代劇の常識、先入観、偏見にしばられず」
同じ文脈で「通常」という言葉が一回(以下引用)。
「時代劇に通常登場する武士、領主、農民はほとんど顔を出さない」
ダメ押しがこの文章につけられた副題、「この映画の狙い」である。つまり、宮崎作品は映画のために作られた映画ではなく、宮崎監督が言いたいことのために利用されている映画なのだ。
「もののけ姫」のパンフレットは、さらに、宮崎監督自身のインタビューに4ページを割いている。映画を作った後でもまだ言い足りないことがあるかのようだ。「エヴァ」のパンフレットには庵野監督自身の言葉はまったく見あたらない。スタッフや声優が庵野監督について語るという形式の記事だけである。
おそらく宮崎監督は自分の伝えたいメッセージが、意図したとおりに観客に伝わらなければ気が済まないのだろう。映画は作者の意図したとおりのメッセージを伝えなければならない、というコンセプトに宮崎監督は依存している。
自分のメッセージは、これでもかこれでもかと言っていれば必ずその熱意とともに相手に伝わる。言葉やアニメ作品などは、そのメッセージを伝えるためのメディアにすぎない。
これは典型的なオジサン世代の発想である。
自分と相手をつなぐメディア(言葉や芸術作品など)は自分の考えを伝えるための道具に過ぎない。宮崎監督がパンフレットに「この映画の狙い」と題した文章をわざわざ載せなければならなかったのも、2時間の映画では十分に伝わらなければ、文章でもなんでも手段を選ばないという考えの現れではないか?
僕が思うに、「もののけ姫」ではおそらく宮崎監督の伝えたかったことは伝わっていないと思う。
まず映画館で元気にはしゃいでいた子どもたちにはまったく伝わっていないだろう。「もののけ姫」をご覧になった方はお分かりだろうが、子どもたちはコダマのかわいらしさにしか関心がなかったようである。
また、大人にもおそらく伝わっていない。あんな美しいクライマックスを見せられては、とりあえずアシタカとサンが仲よくなってよかった、ぐらいの感想しか残らないのではないか。いくら自然を破壊しても、澄んだまなこで見つめる少年が現れれば、山々には緑が戻るとでも言うのだろうか。
「もののけ姫」は今までの宮崎作品と違って、ハッピーエンドではないと言われていた。宮崎監督自身、折りにふれてそう言っている。しかし、僕が見る限り、「もののけ姫」はまさにハッピーエンドである。
現実の地球が抱える環境問題のジレンマと裏腹に、「もののけ姫」の村には緑がもどり、エボシ御前は改心してしまっているではないか!
そういうハッピーエンディングを迎えることで「もののけ姫」という物語は、それ自身で完結した物語として、僕らとは無縁なフィクションの世界できれいに「閉じられて」しまっている。劇場を出た途端、僕らは安心して再び地球を汚し始めることができるのだ。
こうしたことはすべて、言葉を濁さず言えば「全共闘世代」である宮崎監督が、自分がメッセージを託すメディアに依存しながらも信頼してないことからきている。ある意味では宮崎監督は楽天的すぎるのだ。今の時代が抱える問題に対して、「個人的な」切迫感がなさすぎるのだ。
それは庵野監督の「エヴァ」と比べてみたときによく分かる。庵野監督はまさに監督個人が切実に感じている時代の閉塞状況を、不器用なほどそのまま「エヴァ」という作品にぶつけている。
庵野監督ははじめからメディアなど信頼していないと言ってもいいだろう。いくら自分の言いたいことを表現したと思っても、その一割さえ正確に伝わるものか、という諦めがある。
この言葉やメディアに対する不信感こそが、X世代が抱えている根本的な不安の原因になっているのだ。庵野監督や僕を含むX世代は、宮崎監督にたいして次のように言いたくなるだろう。
あなたの世代は自分の言いたいことを言えたと思っているみたいですけど、こっち(X世代以降)には全然伝わってませんよ、と。
同じようなオジサン世代とX世代のすれ違いは、企業社会でも繰り返されている。この点についてはこのホームページで何度も取り上げているが、いくら言っても言い過ぎることはないだろう。
このズレを、女子高校生の売春という極端な例を寓話化することで説明してみよう。父親が「売春なんかやめなさい!」と娘に叱りつけても、娘は「わかった、もうしないよ、お父さん」と言いながら見つからないように売春を続ける。
このケースで、父親が若者に理解があって、流行にも敏感で、娘と恋人同士のような打ち解けた関係にあったとしても、娘は隠れて売春を続けるだろう。
逆に、娘に体罰を与えて言うことを聞かせようとしても、娘は売春を続けるだろう。同じように、宮崎監督が「もののけ姫」に人間と自然の共生というメッセージをこめたとしても、僕らの世代にはそのメッセージは決して伝わらない。僕の目の前には技術的にすぐれたアニメーションがあるだけである。
それはなぜか?団塊の世代の「お説教」は、個人の苦悩を飛び越して、いきなり原理原則に到達してしまうからである。
上の寓話で言えば、父親は「売春は悪い」という抽象的な道徳観念を伝えることしかできないが、娘が売春をするという事実は、もっと個人的な苦悩や経済観念のレベルにある。
この状況は、公式の場では「間違いだった」と言いながら、個人レベルの補償問題には尻込みするといった、日本政府の戦後補償に対する態度と気持ち悪いくらい似ている。
宮崎アニメも同じ状況を作り出すことしかできないのだ。宮崎監督は人間と自然の共生という抽象的なテーマを必死で伝えようとして、パンフレットの前書きまで自分で書いている。
ところが、見ている僕らは、そんな抽象的なメッセージと個人の状況に何の接点も見いだせず、ただ「ぽっかーん」とするしかない。せいぜい、純粋な少年と少女の初恋の物語(それならこっちにも経験がある)くらいに切り詰められてしまうだろう。
庵野監督のメッセージは悲痛である。それは抽象的な原理原則などではなく、庵野監督自身の個人的な苦悩の叫びそのものなのだ。「エヴァ」の観客は自分自身の苦悩や醜さに否応なしに向き合わされる。敵と味方の和解劇であるはずの「人類補完計画」も、観るものにとって非常に後味の悪いものになる。
一言で言うと、庵野監督の伝えるメッセージの方が、僕らの世代にとって「リアリティー」があるのだ。その最大の理由は、庵野監督が自分のメッセージがちゃんと伝わるなどというオジサン的な余裕をまったく持っていないことにある。
宮崎監督が女子高校生の売春をテーマにアニメを描けるだろうか?神戸小学生殺人事件を主題として作品を作れるだろうか?絶対に不可能だ。宮崎監督が主題としてきたのは、人間と自然の共生、戦争と平和など、僕らの世代にはもはや空虚に響くだけの「抽象的な概念」でしかない。
つねに個人を乗り越えた抽象的なもの(それが「反安保」であれ「会社の利益」であれ「国益」であれ)に奉仕してきたオジサン世代は、僕らのように個人的な孤独感から始めなければならない世代に、ひとつでもまともにメッセージを伝えることができるだろうか?
エヴァの観客はコスプレなの?と僕にたずねた同僚も、すでに「会社の利益」という抽象的な概念にのみ込まれている。将来、自分の子供が不登校になっても、「ウリ」をやっても、「それは道徳的にいけないことだ」という抽象的なお説教しかできないだろう。
オジサン世代がくりかえす抽象的なメッセージにうんざりする一方で、自分の言葉が正確に他人に伝わらないという、きわめて個人的なことから始めなければならない。
そういうX世代の寂しさを共有しているだけで、庵野監督こそ僕らの世代のクリエイターであり、村上龍の「ラブ・ポップ」のような主題を映画化するにふさわしい監督なのだと言える。