2000/08/11(金)夜0:00からNHK総合で放送されたMisiaのツアー『Love is the message』を見た。何気なく合わせたチャンネルのつもりが、引き込まれるように1時間半のライブ映像に見入ってしまった。
なぜこれほど引き込まれたのか?その理由として映像の力が大きい。まずダンサブルな曲でのめまいがしそうなほど高速なカット割り。フレームを傾けたステージの俯観ショットや、ピントをはずしたステージ上のアップなど、ありきたりのライブビデオではお目にかかれないカット。
天使の翼のように大きくうねるリボンと、その中央につるされた鐘というバロックな舞台装置、会場の天井一面に輝く星空、椅子に座ってバラードを歌うMisiaを真下から突き上げる黄色い照明など、舞台そのものの新奇な演出。そして映画『マトリックス』ばりのコンピュータ・グラフィックスによる視覚効果。
そうした映像上の処理すべてがライブ会場の生の熱気を伝えようとするよりむしろ、ライブ(live)が本来もっているはずの現実感や生々しさ(liveness)を完全に払拭しようとしている。その意図的な自己否定がMisiaのライブ映像に引き込まれてしまった大きな理由に違いない。
そんな映像に見入っているうちに、生々しさを否定しようとする映像が、Misiaの力強い歌声やステージアクションと何ら矛盾していないことに気付いた。宇宙服を思わせる彼女の衣装も、映像上の処理も、彼女の歌の本質的な部分を伝えようとしている。
彼女が歌っているのはHIP&HOP、TECHNO、HOUSEなど、リズムのバラエティーはあるにせよ、基本的にR&B、つまりアフロ・アメリカンのソウルフルな音楽である。ところが彼女のR&Bはソウルがきれいさっぱり昇華されてしまっているように聞こえるのだ。
彼女がバラードを歌い上げるとき、それは具体的な愛する人に対するメッセージというよりも、その向こう側にある何かもっと普遍的な存在に対する問いかけのように聞こえる。観客に向かって「ありがと〜」と呼びかけるときも、観客一人ひとりに対する言葉というより、今の彼女をして歌を生きることの意味たらしめている遍在的な存在に対する感謝のように聞こえる。
たとえば同じR&Bを歌う宇多田ヒカルの歌を聴くとき、そのカリスマ性の裏にもろさを感じずにはいられない。聴く人を勇気づけようとする歌詞があったとしても、もともと宇多田自身への声援として書かれたのではないかと思わせるはかなさがある。宇多田の歌にはかつての中島みゆきが持っていた「私小説」性がしっかりと宿っている。宇多田の歌は、たしかに彼女自身の歌であり、もしかすると彼女自身のためだけに歌われ、聴く人はその孤独感に引かれるのかもしれない。
一方、「姫」と呼ばれるMisiaのカリスマ性には、もろさがあるとしても明らかに演技としか思えない「もろさ」しかない(それが悪いと言っているのではない)。彼女が歌っている歌と、彼女の生身の存在には何の関連もないように聞こえる。彼女が歌っている歌は、彼女自身が歌っているのではなく、何かもっと大きな存在が彼女の体を借りて歌っているように聞こえてくるのだ。
宇多田の歌がユニセックスな言葉で書かれているときにも「女性」を感じさせてしまうのに対して、Misiaの歌が明らかに女性として歌われているときにも性別を超えた何ものかへのメッセージを感じさせてしまうのもそのためだろう。ライブ映像で、前半と後半を分割するMC役を演じているのがいわゆるニューハーフの2人であることにも、その意図がかぎとれる。
宇多田の歌は宇多田と聴衆一人ひとりの個対個の対話として聴かれるにふさわしい歌であり、Misiaの歌は、実は彼女自身も聴衆の一人でしかなく、Misiaもふくめたすべての潜在的な聴衆と、本当の意味でその歌を歌っている存在との対話として歌われ、聴かれるのにふさわしい歌なのである。
数か月前、MisiaがFM番組でこんなことを語っていた記憶がある。これからも様々な恋愛を経験することで私の歌は変わっていくし、そうして変わっていくことが必要だろう、と。
しかし彼女の歌が彼女個人の経験によって「私小説」の世界にひきずり降ろされることは、彼女の歌にとって不幸なことかもしれない。彼女の卓抜したテクニックは彼女自身の「私」を超えた、何とも名付けがたい、もっと普遍的な何ものかのために、そしてその何ものかによって存在しているような気がする。
宇多田が歌いつづける理由が「私って誰?」という実存的な問いのうちにあるとすれば、Misiaが歌いつづける理由は「私はいったいどういう存在の代理として歌っているのか?」という問いを問いつづけることにあるのではないだろうか。