現代日本の新進女性作家にとって家族と性 という主題が特権的であるのは、それが個人の自由、つまり伝統的な価値・社会的な因襲からの解放として解釈されるからではない。
仮に 家族 が体制という仮想権力に対する闘争や不可視な内面的拘束からの逃走という政治戦略によって崩壊に追い込まれるのであれば、その政治戦略は自己という中心を仮定しなければならないが、自己を規定しようとするやいなや当の対象から自己の規定を送り返されるという奇妙なジレンマに陥らざるを得ない。
60年代に多くのフェミニストが想像したように、 女性の個の確立 とともに政治闘争は終焉して脱家族の新たなパラダイムが展開されるのではなく、家族という幻想の崩壊は自己という幻想の崩壊とともにやってくる。
そしてその崩壊は政治戦略によって完成(終末)へと向かう一方向的な時間の中で実現されるのではなく、中心を持たない 結節点 と 通信網 (パソコン通信・携帯電話・ポケベル)が特徴づける経済的変動によって、われ知らず現前していることに改めて気づくといった始末なのだ。
生活水準の向上は核家族化を促しはしたが、それは消費選択の自由を謳歌する個人を生み出したのではなく、完全に市場に制御される流通の無数の結節点(それをなお「個人」と呼べるだろうか)を生み出したに過ぎない。
細分化されることで粒立った個の存在を消費の個性化と錯覚させる経済的変動は、あたかも個人の神経網であるかのように錯覚される通信網の遍在化に裏付けられている。
通信網を通じて個人は情報を収集しているのではなく、情報という粒子運動の一結節点へと還元されている。そのような個人の解体・粒子化にたいして政治的な態度をとることの不可能さを体験しつつ解体・粒子化に身を任せることによってのみ家族の崩壊・性の再確認 が可能であることをこれらの女性作家は表現している。
テレファックスというパソコン通信を通じた売春によって純粋な情報の結節点に還元されるアミ。
ビデオのようにレンタルされる自分の身体。
それは交換価値であり続けてきた女性という性の特権的な視点である(交換価値であることを免れようとする政治的努力も「経済」のただ中で無効にされてしまったのではないか?)。
しかしそこに抵抗する核が現われてくる。
新たな生命の 誕生 、学友の 死 。
生命が不意打ちを食らわせるのは、生命を維持する装置としての 家族の解体 によって、あるいは個人が情報網の結節点に還元されることによって、生命の問題を回避し得たという瞬間なのである。
まさにアミが兄の子を孕みながら輪姦され死の淵に立つとき、レンタル契約にない身体を学友の前にさらけ出すとき、それは 生命 の問題が 個人に対峙する瞬間であり、この事実は生命が個体とは全く無関係に自律した濃密な存在であることを図らずも示している。
家族と自殺が柳美里にとっての主題となるのはそのような背景においてである。
柳美里(ゆう・みり)
1968年6月22日神奈川県生まれ。在日韓国人二世。かに座。A型。
1984年、横浜共立学園高校一年中退。東京キッドブラザースをへて
1988年、劇団・青春五月党を結成
1993年、「魚の祭」で第37回岸田国士戯曲賞受賞
1996年、最初の小説集「フルハウス」で泉鏡花文学賞、第18回野間文芸新人賞受賞
1997年、「家族シネマ」で第116回芥川賞受賞
