いつものように名古屋の繁華街・栄のHMVをブラブラしてTECHNOのコーナーに差し掛かったとき、目の錯覚かREICHの5文字を見つけた。ふつうならクラシック売り場の現代音楽コーナーでしか見かけないこの5文字を見た瞬間、ミニマル・ミュージックこそTECHNOの祖先であり、なぜ僕がケン・イシイの音楽にあれほど引かれたのかを理解した。ケン・イシイを知る前、僕はスティーヴ・ライヒのファンだった。
最近このページの「a man fascinated by muses」というページで、僕と音楽の関係についての自伝的エッセーを書いたとき、後期ロマン派の交響曲にハマって以降のことをまた後日、散文的に書いてみたいと言いさしたままになっていた。『Reich Remixed』というアルバムを見つけた今日が最適の日だろう。
スティーヴ・ライヒが誰かということについては、こちらのページをご覧頂きたい。また、こちら「Phase 3」というサイトにはライヒ入門のページもあるので、これからライヒを聴き始めたいという方は必見である。
スティーヴ・ライヒはミニマル・ミュージックと呼ばれる現代音楽の一つのスタイルを確立した音楽家で、クラシック音楽界の有名な演奏家を多数輩出しているジュリアード音楽院で学んでいるというから折り紙つきのエリートだ。
僕は彼の代表作である『Drumming』(1971)のCDしか持っていないのだが、このCDの日本語のライナーノーツ(川西真理氏)によれば、ミニマル・ミュージックとは作曲者の感情表現を最小(ミニマル)にしようとする音楽で、短いフレーズの機械的で正確な反復を基本としているとのこと。ミニマルという言葉は同時に、最小限(ミニマル)の音形から大きな多様性を生み出すということを意味している。
卑近な例で説明すればどうなるだろう。たとえばコインランドリーに行って、同じメーカーの洗濯機が2台ならんでいるとする。それぞれに洗濯物を入れて、用意ドン!で洗濯を始める。するとそれぞれ、ガガッ、ガガッと洗濯漕が回り出す。
同じメーカーの洗濯機とは言え、洗濯漕の反転する周期には微妙な違いがある。一方は1.2秒周期、他方が1.3秒周期だとすると、0.1秒ずつ、ガガッと洗濯漕が反転するときのノイズがずれていく。そのズレはどんどん大きくなるが、やがてまた一つに重なる。全く同じ「ガガッ」という音だけなのに、その音が微妙にズレることでだんだんと変化する複雑なリズムが生まれる。そこに音楽を聴き取ることができれば、あなたもすでに立派なミニマル・ミュージックのファンだ。
大学時代YAMAHAのシンセサイザーでよくミニマル・ミュージックっぽい曲を作って遊んでいた。その当時、自分で作曲して友人の評判も良かった曲をちょっとだけ再現してみるとこんな感じになる。
なぜ僕がスティーヴ・ライヒなどの現代音楽に引かれたのか。最大の理由は上にも引用した感情表出の極小化だ。ふつう音楽は「何か」を表現するものであると思われている。クラシック音楽に限らず、POPSでも同じこと。恋愛感情であったり、人生であったり、田園風景であったり、北欧の雄大な自然であったリ、何か音楽を通して表現したいことがあり、その結果音楽が生まれるという考え方だ。
このページで以前ゴダールの映画についても同じことを書いた。映画は映画以外の何かを表現するための手段ではない。映画以外の不純物のない100%純粋な映画というものが存在する。現代音楽もゴダールの純粋映画に似ている。一粒一粒の音への追求がある。
中でもライヒの音楽は、一度音楽というものを必要最小限の単位にまで切り詰めて、それから再び組みたててみたらどうなるのだろう、という素朴な問いに答えてくれる。それはちょうど、少数の単純な公理から巨大で複雑な論理体系が導き出されるスピノザの『倫理学』に似ている。ライヒは大学の卒業論文のテーマにヴィトゲンシュタインを選んでいるが、なるほどヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の無数の節に分割されたスタイルが徐々に複雑な記述に発展していく様は、ライヒの音楽に重なる。
ある意味で、後期ロマン派の交響曲のようにいきなり圧倒的な音響のかたまりをぶつけられるよりも、音楽の生成の過程そのものに立ち会っているようなライヒの音楽は、クラシックに無縁な人にとってもとっつきやすい現代音楽ではないか。この人がいなければTECHNOは存在しなかった。TECHNOファンの方は先祖もうでにライヒを一枚。