think or die :

1970年代生まれの
人たちのための
エッセー集

think or die home > 映画/音楽/書物を考える > 視点の不在とリアリティー

視点の不在とリアリティー

『ラブ&ポップ』の表現について

1998/01/10

原作を先に読んでいたので、かなり陰惨な映画になっているだろうという予感がして、『ラスト・ワルツ』や『奇跡の海』みたいに、気分が悪くなって中座するのも覚悟だった。

ところが、観終わってむしろさわやかな感じが残ったのは、この映画が全編デジカムで撮影され、コンピュータで編集されていることとも無関係ではないと思う。

庵野監督がデジカムに期待したのは「機動性」らしい。たしかにこの映画は、ふつうのショットの概念を完全に裏切るような、とんでもないところにカメラが据え付けられ、撮影されている。

たとえば、電子レンジの中から外を撮るショットだったり、自転車のフロントフォーク(かな?)からサドルを見上げるショットだったり、果ては、主人公の裕美のスカートのなかにくくりつけられたカメラが、裕美の真っ暗なスカートの中から足元を見下ろすショットだったり、とにかく予想もつかない視点からのショットが続々あらわれて、庵野監督のアイデアのオンパレードになっている。

この映画のクレジットには「Self Cam」という部分があって、映画に登場する俳優の名前がのっている。つまり、俳優自身が自分の体にデジカムをとりつけて、まさに「見た目」ショットを撮影している部分がたくさんあるのだ。

ただ、こうした奇抜な数々のショットは、たんに奇をてらったものではない。仮にこの映画が、従来どおりの主観ショットや切り替えしショットの文法を踏襲したものだったとしたら、観客はラスト近くで、キャプテン××が主人公の裕美に怒鳴りつける裕美の主観ショットを正視できなかっただろう。

原作を読んで僕がいちばん思ったのは、新人の女の子をつかって、あのラストをどうやって撮るんだろうということだ。まさかいきなり16歳の新人が全裸ということにはならない。

で、そのラストは今言ったように主人公の主観ショットで解決されていたわけだが、あの部分は活字だけでもかなりの生々しさがあったのに、映画ではまったくエグくなかった。

そこにデジカムの機動性のほんとうの意味があるんじゃないかと思った。この映画で、カメラは生きている人間の主観でもなければ、神の視線でもない。ビールジョッキの底の視線だったり、Gゲージを走る模型電車の視線だったり、本来カメラは人間(あるいはその代替物)の「視点」であるという前提があるが、この映画のありとあらゆる視点からのショットは、カメラがもはや視点ではないということをくりかえし伝える。

それは、この映画のフレームについても言える。主人公が援助交際で得た12万円をひとり占めできないといって泣き出すシーンは、『エヴァ』の有名なアスカとレイのエレベーターのシーンを思い出させるようなスチルショットの長回しになっているが、このシーンのフレームは縦長にゆがめられ左右に大きく黒い地を残している。

裕美がタクシーに乗っているシーンも、画面内のあちこちが長方形に切られて、そこだけが周囲を黒く残してフレームになっている。

観客はカメラを通してだれかの視点になることを強制されているわけではない。観客の視点になることさえも強制されていない。主人公たちの生きる世界を自由にとびまわる(天使のような!?)抽象的な存在として事件に立ち会っているだけだ。

そのカメラの存在の希薄さが、実写映像のリアリティーの体温を、村上龍の活字のリアリティーの体温とちょうど同じレベルにまで下げているような気がする。

あのラストの修羅場を、かりにふつうの映画と同じ35mmで、きっちりした照明つきで、浅野忠信の肩なめ三輪明日美と、その逆の切りかえしショットで撮影されていたとしたら、その地獄の生々しさに観客は吐き気をもよおすのではないか(レンタルビデオ屋のシーンも同じ)。

粒子の粗いデジカムを通してみたようなリアリティーのない世界が、この映画に描かれた世界のリアリティーを、主人公たちのリアリティーを、そしてこの映画に何らかの共感をよせることができる観客のリアリティーをもっともよく表現している。このあまりに的確すぎる庵野監督の技術的選択に、観客はまたまた舌を巻くのだ。



sub title home > 映画/音楽/書物を考える > 視点の不在とリアリティー
筆者のブログ
「愛と苦悩の日記」
おすすめ記事