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![]() 欲望の不在と希望 ( 19980110 ) 最近、人事異動で職場が変わったせいで、何度か「自己紹介」を迫られる場面があった。自己紹介をするたびに思うことは、ひとつは、自分の趣味は××です、音楽は××が好きです、と言ったとたんにそれがウソに感じられるということ、そしてもうひとつは、その場の自己紹介で、自分の人物像が固定されてしまうことへの面倒くささだ。 まず、自分は××が好きだ、と言ったとたんにそれがウソに感じられるというのは、その背後に、たしかに今は××が好きだけれど、明日はどうなっているかわからない、という感覚がある。 僕らは、おじさんやおばさんたちの若いころとは違って、毎秒拡張しつづける世界に生きている。テレビやインターネットで入手できる情報は、いままでに知らなかった世界を毎日のように伝えてくれる。 だから、今の時点で僕が××が好きだというのは、あくまで今の時点で僕が知っている世界の中では××が気に入っているという暫定的なものにすぎない。明日僕がふれる新しい世界がもっと気に入れば、僕の好きなものは変わるだろう。むしろそうして毎日のように趣味が変わっていくのがノーマルであるという、今の生き方だ。 このページで以前、若者のマイブーム現象を論じた日経新聞の記事を批判したが、日々新しい世界がメディアによって提示されるような僕らの日常では、むしろ毎日のように趣味が変わるのがノーマルで、いつまでもひとつの好みにこだわっている方がアブノーマルといえる。 僕らの趣味は日々メディアによって提示される世界に影響をうけ、とどまることなく変化しつづける。あの記事はそれを「主体性の欠如」として批判していたが、いったい欲望にとって主体性とはなんだろうか? 近代的な考え方をすれば、欲望とは自画像の反映ということになる。自分がこういう人間だから、こういうものを好きになる。欲望の対象は、自分自身の人間性を、外側にある対象に反映させたもの、というわけだ。 だから、毎日のようにころころ趣味をとりかえる僕らは、まだ自我のかたまっていない、未完成な人格だということになる。そして、このホームページの別の部分でふれたように、退屈な自己紹介しかできないサラリーマンたちは、自我のかたまった「大人」であるということになる。 自己紹介のときに僕が思うもうひとつのこととして、自己紹介したとたん、自分の人物像が固まってしまうことへの危惧をあげたが、彼らサラリーマンにはその心配はないだろう。 去年の冬にスキーを楽しんでいたサラリーマンたちは、今年の冬も、来年の冬も、再来年も、その次の年も、やはりスキーを楽しんでいるだろうから。そういう意味で、彼らの自己紹介は、彼らを「裏切る」ことはないだろう。彼らは自己紹介に表現されたとおりの人物なのだ。 しかし、僕らにとって「自己紹介」はリスクが大きい。だいたい、僕らは彼らサラリーマンのように自分から退屈な人間になりたいとは思っていない。自我を一定のすがたに固めるつもりなどさらさらない。 それは、彼らサラリーマンが過去に不問にふしてしまった問いを、相変わらず問い続けなければならないからだ。つまり、「私はだれなのか?」という問いを。 「私はだれなのか?」と問い続けることをやめた人間にとっては、なるほど欲望は自我の投影だろう。逆に言えば、欲望が自我の投影であるという、マイブーム批判の論拠になっている前提条件は、変化を捨てた人間にとってのみ真である。 まだ変化を捨てるつもりのさらさらない僕らにとって、欲望が自我の投影であるなどという議論は、まったく意味をなさない。むしろ、欲望は僕らをたえず裏切りつづけることで、僕らが「私はだれなのか?」という問題に対する答えを出すことを、先延ばしにしつづける。 じっさい、僕らはなにか特定のものが欲しいという欲望を、長い時間維持するのがとても困難になっている。
自我に問い続けることをやめた人間にとっては、欲望は自我の投影だが、「私はだれなのか?」という問題にそんなにかんたんに答えがでるわけがないと感じている僕らにとって、欲望は「自分がそうではないもの」の投影である。 欲望が自我の投影なら、人はすなおに自分に欠けているものに手を伸ばすことができる。それは平穏な家庭生活かもしれない、会社の中の地位かもしれない、一軒家かもしれない。しかし、僕らにとって欲望とは、自分に欠けているものではなくて、自分がはっきりと何かを欲しがることができないという無力感からくる渇きなのだ。 僕らの欲望の源泉になっているのは、欲望がないということだ。自分は何が欲しいのかわからないということではなく、自分がほんとうになにかを欲しがっているのか、ひょっとすると何も欲しくないんじゃないか、というところにある。自我の問題にやすやすと決着をつけてしまった人々には、このことは理解できないだろう。 『ラブ&ポップ』を、裕美の指輪にたいする欲望をテーマにした物語であるとするなら、仮に裕美が指輪を手に入れたとしても、それはハッピーエンディングにはならない。残されるのは、ほんとうに指輪なんかほしかったんだろうか?というクエスチョンマークだけだろうから。 『ラブ&ポップ』のテーマの美しさは、指輪を手に入れることができなかったことにあるのではなく、ほんとうに欲しいのは他のものじゃないの?という疑問を疑問のままにして答えを出さないことで、物語が開かれたままになっているところにある。 映画を見終わったあとのふしぎな開放感と、胸をいっぱいにする希望は、たぶんそのせいじゃないか、と思った。 無断転載禁止
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