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![]() 限りなく透明に近い疑問符 ( 19970820 ) 村上龍の「ラブ&ポップ」を読み終えてふと思ったのは、テレクラのようなシステムが1969年にあれば、高野悦子は自殺しなくてすんだだろう、ということだ。 「コインロッカー・ベイビーズ」や「5分後の世界」が、偏執狂的な描写力で読者を引き込むとすれば、「ラブ・ポップ」は即物的な実況中継に徹している。ゼロ度に近いそのスタイルはむしろ「限りなく透明に近いブルー」を思い出させる。 そのスタイルと同時に「ラブ&ポップ」を魅力的な小説にしているのは、「あとがき」にもある次のような村上龍の仮説である。
村上龍の文体がゼロ度に近い透明さをキープできているのとパラレルに、そこに描かれている女子高生・裕美の存在も純粋な可能性として透明である。 純粋な可能性として存在するということは、なにか足りない、自分の中にはなにかが欠けている、という意識をキープさせられることだ。もちろん足りないもの、欠けているものが何であるかはわからない。それが分かれば、自分ははじめからそのためだけに存在していたと規定され、純粋な可能性という前提と矛盾する。 神戸小学生殺人事件について文芸春秋に掲載された最近のエッセーにも読み取れる、村上龍のオジサンに対する嫌悪は、彼らの「自分は何ものか(something)である」という意識に向けられているのではないか。 「ラブ&ポップ」の主人公・裕美は自分の父親について「自分が何も知らないということに気づいていないだけだ」と思う。 オジサンとそうでない存在を分けているのはこの点だ。 オジサンは自分が「何ごとかを知っている何ものか(something)である」と自負している。だからこそ宮崎監督のように「もののけ姫」を通じて自分の知っていることを伝えてやろうという傲慢さを持つことができる。 しかし、オジサンとは違う僕らは、自分が「何も知らないということしか知らない」と自覚している。だからこそ庵野監督は「エヴァ」を通じて、自分も何も分かっていないのだということを吐露することしかできない。 オジサンは、すべての人が自分と同じように「何ごとかを知っている何ものか(something)である」と勘違いしている。すべての人はなにか主義主張をもっていると勘違いしている。 だからオジサンはすべてのメッセージに「ストーリー」を求めている。メッセージがあるからには、背後に一貫したストーリーがあるはずだ、という大きな勘違いを犯している。 僕らは、だれもが「何ごとかを知っている」わけではないということを知っている。だからストーリーのないメッセージもありうるということを本能的に分かっている。 オジサンの口ぐせは「それ、どういう意味だ?」といことだが、僕らはオジサンのいう「意味」のないメッセージも存在することを知っている。それは純粋な「問いかけ」であるようなメッセージだ。純粋なクエスチョンマークであるようなメッセージだ。 「二十歳の原点」の筆者である高野悦子は、死ななくてもよかったのではないか?とは誰しも考えることだが、これこれこういう理由があるために死ぬ必要はなかったのだ、と答えを出すことはできない。 高野悦子は早すぎたX世代なのではないか。彼女は純粋なクエスチョンマークであったのだ。しかし彼女が自殺を選んだのは安保闘争の時代、今の日本を形づくったオジサンたちがまだ若かった頃、「意味」を確信していた時代だった。 自分が生きることにも、なんらかの意味がなければならない。意味がなければ生きていることもない。高野悦子が時代から受け取るメッセージはそれだけだった。だから死を選ぶしかなかった。 しかし、彼女の生きている時代にテレクラがあれば、純粋な可能性を手さぐりするままに二十代の寂しさを乗り切れたように思うのだ。たしかに自殺を免れる代わりに、危険な目にあったかもしれないが。 周囲の人間たちが自分は「何ごとかを知っている何ものか(something)である」と勘違いしており、すべてのメッセージには「意味」がなければならないと思っている中で、高野悦子のような純粋な問いそのものである存在は追いつめられるしかない。 今、そのような状況は子どもたちと、それをとりまく大人たちの間で再現されている。子供はつねに「ひとかどの人物(something)」になれ、というメッセージを受け続けるが、その無意味さを大人たちはまざまざと見せつけている(このあたりは上掲の文芸春秋のエッセーを参照のこと)。 何か?という問いそのものに十分な生命の意義がある。このシンプルな命題をオジサンたちが肯定できなければ、追いつめられた若者は死を選ぶかもしれない。だが、オジサンがそれに気づくのはいったいいつのことだろうか。 「ラブ&ポップ」を読んでいて、唐突に高野悦子のことを思い出したのは次の下りに突き当たったときである。 「あたし、本を読むんだよ、変かなあ、そう言って野田知佐が、出会ったばかりの頃、見せてくれた文庫本。古本屋で見つけたという、宮本百合子という作家の『伸子』という小説」 僕が学生時代「伸子」を読んだのは、高野悦子の日記の中にその書名を見つけたからだった。
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