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エッセー集

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言葉のレッスン

柳美里の最新刊エッセー集

1998/06/28

1998年7月1日付けで朝日新聞社から発行された柳美里の『言葉のレッスン』は、彼女が週刊朝日に1995年末から1997年夏にかけて連載したエッセイをまとめたものである。

『家族の標本』や『私語辞典』と同じく短いエピソード集になっている。同じ週刊朝日の連載をまとめた『家族の標本』について、ある文芸編集者は「短編小説にできる素材を原稿用紙4枚のエッセイに毎週出してしまって勿体ない」という言葉をよせたというが、この『言葉のレッスン』も、一つひとつが上質の掌小説のようである。

さまざまな社会問題をとりあげた評論的なエッセーも混じっているが、そこでも彼女のまなざしは、抽象的なテーマよりも一人ひとりの人間に注がれている。

...なんて、とおりいっぺんの解説を書いたって面白くないので、ここからはきわめて個人的な感想を。

いつものように名古屋の中心街をぶらぶらしていて、いつものように立ち寄ったナディアパークの紀伊国屋で、偶然この柳美里の新刊を見つけた。少し前に出版された『仮面の国』は、正直言ってあまり読む気がしなかった。新潮45の連載中にときどき立ち読みしたことはあったけれど、彼女の小説家としての本分は長々とした論述には現れていないと思ったからだ。『言葉のレッスン』は2、3編立ち読みして、背筋がぞぞっと来たので、これは買いだな、と速攻レジにならんだ。

以下に、この本におさめられている、全部で78のエピソードのなかから、とくに気に入ったものを挙げてみる。みなさんもぜひこの本を手にとって、ひそかな楽しみを共有してほしい。

「孤独な散歩者」僕が車ぎらいなことの一つの理由は、歩かなければ見えないものの方を大切にしたいと思っているからだ。ただし、大自然の中を歩くことに興味はない。街中や、都心を少しはずれた公園を歩く。学生時代の散歩コースは、井の頭公園をひとまわりする道筋だった。

「二十四時間の待ち合わせ」やはり学生時代、吉祥寺駅前で、誰も待つあてがないのに、人待ち顔で立っているのはどんな気分だろうかと、30分ほど大きなコンクリートの支柱に寄りかかっていたことがある。すると不思議なことに、歩きすぎていく人すべてが、僕の待っている人であるかのように思えてきた。待つということは、すでに分かっている何かを待つのではなく、自分が何を待っているのかをさぐる行為そのものであるかのように。

「雑誌の禁じ手」『じゃマール』が発行されるずっと以前、学生のころから、僕は月刊『歌謡曲』という雑誌の文通友だち募集コーナーを見て手紙を出すのが趣味だった。同年代のある女性に手紙を出したところ、写真入りの返事がきた。何度か手紙のやりとりをくりかえすうちに、僕は就職で東京から名古屋に越したが、あるとき彼女がわざわざ名古屋まで会いに来るという。

それまで同じ東京に住んでいたのに、会うのはそれがはじめてだった。そのころ彼女は親元を離れて熱海の旅館で住みこみで働いていた。複雑な家族関係を抱えて、やや心をわずらっていた風の彼女にとって、それは一人で生きていくための賭けだったようだ。

彼女はお土産に、働いている旅館のハンドタオルをくれた。ペンギンの絵がプリントしてあるかわいらしいタオルだ。栄のレストランで食事をしたとき、注文したサラダに彼女はほとんど口をつけず、お酒も飲めないようだった。

そして名古屋駅前にとってあるというホテルに近づいたとき、彼女は「手をつないでくれますか」と言った。そうしてホテルの前で別れるとき、かたく握手をして「ありがとう」と言った。彼女も同じ言葉を言った。

あまりに繊細で今にもこわれてしまいそうな彼女の印象に胸が痛んで、それから手紙のやりとりができなくなってしまった。僕は僕で慣れないサラリーマン生活に苦しみながらも、仕事の楽しみを見出し始め、一年ほどたったある日、飲み会のカラオケ対策に、ひさしぶりに月刊『歌謡曲』を買った。

一年のあいだ見ることもなかった文通友だち募集コーナーに、彼女の名前を見つけた。住所は実家にもどっていて、その文面は、悩みをかかえた女子中高生に、前世の存在を信じるかどうか問いかける内容だった。

あのときの握手は、彼女にとっては遥かに重い意味をもっていたのだと知った。彼女の気持ちを理解できなかった罰を、僕は今も受け続けているのだと思う。

「忠告の手紙」僕の今の生活にとって性欲ほど邪魔なものはない。このためにどれだけの時間と金銭を浪費しているかを考えるとやるせない気分になる。いっそのこと精巣を取ってしまおうかと冗談で考えることもあるが、いずれにせよ優生保護法は健全な精巣を本人の勝手で除去することは認めない。でも、ほんとうに完全に女性に興味がなくなったとしたら、と考えると、たしかにそら恐ろしい。

「無責任なサラリーマン」会社というバックがあるとサラリーマンは無敵になる。他人の心を傷つけることを平気で口にする。僕もその一人である。

「変わっていない友人」僕のことばは知らないうちに誰かを傷つけてしまっている。そう思うと、感情を含まない、論理的な言葉しか口にできなくなるのだ。

「クロッカスの鉢植え」

「女と男」

「向学心旺盛な呑太郎」僕の母親は子供のころ学歴と無縁の生活を強いられたが、向学心の大切さを叩き込んでくれたことに感謝しなくてはならない。だから僕は、エンジニアのくせに技術的な勉強もせず、調整役として口先だけで仕事をしている年長のSEを見ると憤りを感じる。世の中には勉強したくてもできなかった人がたくさんいるのだ。そういう能天気なサラリーマンに僕が密かに感じる怒りは、生半可のものではない。僕がもっとも軽蔑するのは、向学心のない人間だ。

「ひなのに逢えた!!」柳美里が、大の吉川ひなのファンであることは、とっても有名な話である。とにかくこのエピソードは本を手にとって読んでみてちょ。ちなみに、なぜ柳美里が吉川ひなののファンかというと、失われた少女時代への悔恨ということらしい(正確な引用ができなくてすみません)。



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