think or die :
1970年代生まれの
人たちのための
エッセー集
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無垢なるものの悲劇
ラース・フォン・トリアー『奇跡の海』
1997/08/20

矛盾した言い方になるけれど、無垢なものはつねに汚されている。

ロベール・ブレッソン監督の名作「少女ムシェット」において、もっとも神に近い無垢な存在として描かれているのは、実際には起らなかった殺人事件の黙秘を強姦によって強要された14歳の少女だ。

トリアー監督の「奇跡の海」でも、主人公のベスは、売春婦に身を落とし、教会から追放されながらも、無垢そのものであり続ける。神に近いのはここでも村の教会の神父たちではない。

同じことはベルイマンの「処女の泉」にも言える。

しかし常に僕の頭をよぎるのは、汚れた無垢を償うものは死しかないのだろうかということだ。死による償いも、すぐれてキリスト教的なテーマではある。

ただ単に生き続けることに、たいした意味があるとは思わないが、汚れた魂が神の不在に苦しみながらどう生きるかということに、もっとリアルな現実があることは確かだろう。その点では、ケン・ローチの「レディーバード・レディーバード」のような、アプローチが、「奇跡の海」よりも「リアル」である。

あえてロングショットをCGで加工したり、油井の天上で存在しないはずの教会の鐘をCGで鳴らすシーンは、観る者をちょっと鼻白ませる。なぜか。「奇跡の海」の一貫したスタイルは、手持ちカメラの不安定なショットだからだ。

同一シーンの2人の人物を切りかえしショットで取ることもなく、1台のカメラでいちいち振り向く取り方は、明らかにドキュメンタリーのパロディーになっている。意図的なピンぼけのショットもたくさんある。

なのになぜ、ラストでCGの鐘をならすんだ?スタッフロールに、生前のベスの回想を挿入するんだ?

現実の残酷さという真実に、ラストシーンまで戦慄していた僕は(そのせいで気分が悪くなって一度トイレに立ったほどだが)、最後の最後ですっかり裏切られた思いがした。結局トリアー監督に、こんなの単なる「物語」なんだよ、ざまぁー見ろ、と言われた気分がした。

新調した真っ白な洋服に自分の身をくるんでムシェットが入水した後の水面を、ただ撮り続けるブレッソンに、僕は汚れたものの贖罪に向ける眼差しの愛を感じる。CGの鐘が鳴ことで、ベスの死が報われたとは決して感じられない。

そう考えると、トリアーの手持ちカメラも、「奇跡の海」の誇張されたセピア色のプリントも、単なるスタイルでしかないのかと思われる。スタイルだけの映画は、零度の物語を撮るべきではないか?結婚によって処女を失い、幸福の絶頂にあるベスが、最愛の夫を全身不随にされ、その夫の愛に答えるために娼婦になって客の一人に切り刻まれる、こういう物語が、零度であるとは言い難い。ドラマティックすぎる。

それを「スタイル」で見せてしまうトリアー監督に、心の中に神を抱く人間を描く資格などないのではないか?少なくとも僕は、ベルイマンやブレッソンの敬虔に引かれる。トリアーの「スタイル」には、嘔吐する。

実は、汚れたものと無垢との逆転こそ、きわめてキリスト教的な救いの逆説である。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか」(新共同訳新約聖書マタイ伝18.12)