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SIMPLICITY & DEATH
( 19970820 )

Japanese/English

「文学論」といっても、今回はタレント本。ダウンタウンの松本人志のベストセラーが文庫化された『「松本」の「遺書」』(朝日文庫)と、ビートたけしのバイク事故直後の手記『たけしの死ぬための生き方』。

つまらないTVよりはマシな暇つぶしになるだろうと思い、どちらも小一時間で読み終えた。

ダウンタウンは東京進出前、大阪ローカルの『5時ですよーだ』をやっていた時代からのファンで、『寸止め海峡(仮題)』というライブビデオを見たときには、こういう形の笑いもあるのかと面食らった。

上方漫才の基本は「しゃべくり」だとすれば、松本人志は、その「しゃべくり」自体が意味をなさなくなるまで「しゃべくり」を追いつめていく。『寸止め海峡(仮題)』の最後の部分で、どこの国の言葉でもない、動物的な「うめき声」だけでコントを成り立たせてしまう才能に、そのことが現れている。

他のお笑い芸人が、意味のある言葉、理解可能な言葉を駆使するのに対して、松本人志は言葉以前の言葉の力(呪術的な?)で笑いを引き出す、異常なまでにラディカルな芸人である。松本のラディカルさに比べると、とんねるずやウッチャン・ナンチャンは、なんて常識人なのだろうと思ってしまう。

ビートたけしは『たけしの死ぬための生き方』の中でも自ら関西弁のしゃべくりに、東京の漫才はかなわないことを認めている。その分、彼が作り出すまったく無駄のない映像作品に、そのラディカルさは存分に表現されている。

彼らの本がベストセラーになるのは、意地悪い言い方をすれば、サラリーマンの「ガスぬき」の機能を果たしているからと思われる。サラリーマンを一言で定義すれば、「自分は好きでサラリーマンになったんじゃない、と思っているサラリーマン」のことだ。

サラリーマンの精神性の対局にあるのが、「シンプルさ」である。

ここでいうシンプルさとは、単純で頭が悪いということではなく、一切の無駄が削ぎ落とされた運動の力線そのもの、ストイック(禁欲的)なスタイルのことである。

サラリーマン的な生活は、無駄なものが腐るほどへばりついている。

まず言いたいことをストレートに言ってはいけない。サラリーマンが身につけるべき弁論述は、言いたいことをそのまま言わずしていかに伝えるかというテクニックである。日本語で可能な限りの婉曲語法を駆使できなければ、サラリーマンとして生きていくことはできない。

自分の要求を伝えるときも、あたかもそれを望んでいるのは他人であるかのように表現することが美徳とされる。それがサラリーマン的な修辞法である。

また、サラリーマンは仕事に打ち込んではいけない。重要なのは「人脈」など、仕事とは無関係な非本質的な部分なのである。そのためにサラリーマンは、酒や賭け事などの「遊び」を知っていなければならない。ゴルフもまた「人脈」「人づきあい」のための余剰物である(ちなみに松本人志はゴルフのどこが面白いのか分からないとのこと)。

このようにサラリーマン的なものとは、あちこちに曲がりくねった道をたどりつつ、結局はある目的に向かっているという雰囲気を作り出すテクニックのことである。迂回しつつある方向をめざす。

多くのサラリーマンは、そのような自分の器用さに酔っている。

複雑な敬語・婉曲語法・社交辞令・規則集をこなす自分の手練手管に酔いしれている。冠婚葬祭のあいさつが上手かったり、相手をうまく丸め込む交渉術にたけていたり、そういったことにサラリーマンは自分の存在意義を見出す。

そして自分の存在意義を確認するために、ただでさえ複雑なものを、いっそう複雑にしようとする。細かな規則集を作りまくる。中間管理職のポストを作りまくる。そうやって自分の住む世界を複雑にすることで、自分自身の身を守る。

いかにサラリーマン的なものが、力強いシンプルさや、ストイシズム(禁欲主義)とかけ離れているかが分かっていただけるだろうか。

松本人志は『「松本」の「遺書」』の中で、野球と酒が嫌いだと書いている。

野球は異常に複雑なルールと、そのルールをあざむくテクニック(松本があげている例は「隠し球」)に支配されている世界である。それはまさにホワイトカラーの生きる世界と同じであり、彼はそんなごちゃごちゃした世界を嫌悪している。

彼が野球と対比させるのは、ボクシングの世界である。ボクシングには複雑なルールなどない。殴り倒した方が勝ち。それだけのシンプルな世界。彼は自分の生きる芸人としての世界をボクシングになぞらえている。

また、松本が酒を嫌う理由は、酒の力を借りなきゃ何もできないやつを軽蔑しているからである。彼はいくら偉大なアーチストでも、麻薬の力を借りて作ったような作品は絶対に認めないと断言する。

酒の力を借りなければいけないのも、サラリーマン的なものの特徴である。サラリーマンの人間関係は、「酒の付き合い」をベースに展開されている。「酒を飲んで腹を割って話す」のがサラリーマンというわけだ。

逆に言えば、酒の力を借りなければ本音を語れないというサラリーマン的な世界は、しらふの間に複雑なルールを作りまくるというもう一方の側面と正確に符合している。

また、松本はおねえちゃんのいるクラブが好きではないと書いている。一方、酒の力を借りなくては何もできないサラリーマンは、おねえちゃんのいるクラブが大好きである。

ストイックにひとつの目標にむかって突き進むシンプルな生き方。これが松本の理想とする生き方であり、サラリーマン的なものと正反対のところにある生き方である。

では、なにがこの両者を分けているのか?

たぶん「死」に対する考え方だと思う。

サラリーマンは死のことを完全に忘れているか、死から目を背けているかのどちらかだと感じる。死を完全に忘れているサラリーマンは、栄養ドリンクをどくどく飲みほして新幹線に駆け込み乗車している。死に目を背けているサラリーマンは、健康診断で肝臓に警告を出されているのに、毎晩日本酒を浴びるほど飲んで脳みそを溶かすことに余念がない。

これに対して、死と正面から対峙する人間は、どうしてもシンプルでストイックな生き方をせざるを得ないのではないか?ビートたけしは『たけしの死ぬための生き方』の中で、死はあくまで個人の問題であると書いている。

これは、実存主義をちょっとでもかじったことがあればおなじみの命題だ。つまり、死は孤独なものである。だれも他人の死をかわりに死ぬことはできない、という事実。そして、死が完全に個人的な問題であるなら、生もまたそうである。

つまり、自分の人生を生きることができるのは自分だけであるというシンプルな事実。ところが、孤独な死という事実から目を背けるサラリーマン的な精神性は、生をも自分だけのものでなく、一般化してしまう。

サラリーマン的な精神性が生きているのは、自分の生ではなく、だれのものか分からない生である。そのためにサラリーマンは、できるだけ他人と同じであろうとする強い傾向をもっている。

先輩が酒を飲むなら後輩も酒に強くなろうと努力し、勧められるままにゴルフを始め、おねえちゃんのいるクラブでカラオケに興じ、などなど、みんなと同じことを繰り返して安心する。

これに対して、松本人志やビートたけしは、いい意味でも悪い意味でも自分が孤独であることの深い認識がある。自分の生を生きられるのは自分しかいないという、深い認識がある。それが彼らにストイックでシンプルな生き方を強要しているのだと思う。

彼らの本がサラリーマンの「ガスぬき」になると言ったのはこの点である。サラリーマンは自分の生を生きる必要がない。複雑なルールに身を任せ、酒やギャンブルで脳みそを溶かしつつ、誰のものでもない生を生きる。

そういう立場から、芸人さんはたいへんだねぇ、とつぶやきつつページを繰る。こちとらは職場のみんなと同じように、酒のんでゴルフやって馬券でも買ってりゃそれでいいんだから。

悲しいことに、僕と同じ世代のサラリーマンの中にも、こんなサラリーマン的な精神性が未来永劫、有効であると信じて疑わない人間がいることである。

ビートたけしが『たけしの死ぬための生き方』の中でも指摘しているように、今の日本人が典型的に抱いているようなサラリーマン的な精神性は、団塊の世代が高度成長期をになっていたほんの20年間ばかしの期間だけに最適化された生き方でしかないのだ。

時代が変われば、何が善で何が悪かも変化する(「善悪はアクティブで一時的な選択の産物でしかない」ドゥルーズ『千のプラトー』より)。現時点での価値基準が、4人で1人の老人を支える超高齢化社会に通用するわけがない。

それでも父親の世代と同じように、酒やギャンブルに興じて自分が死ぬことさえ忘れるサラリーマン的な精神性は、まったくもって...。


「全ては個人の問題。だから、五千人が死にましたなんて、「五千人死んだ一つの事件」みたいにくくるのは冒涜だよね。そうじゃなくて、「一人が死んだ事件が五千件あった」ってことだよ。大災害で死ぬとすぐ社会的な問題にされちゃってね。そうじゃない。死んだ人にとっては凄い個人的な問題なんだ」(p.96)

メメント・モリ(memento mori)


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