think or die :
1970年代生まれの
人たちのための
エッセー集
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匿名の身体と文体
佐藤亜有子の2編の小説について
1997/08/20

文芸賞受賞作家である佐藤亜有子の新刊『生贄』を読み終えて、最初に考えたことは、とは女性だけのものだったろうか?ということだ。

狂言まわしである男性は物語の外部でもなお、奇妙な思い出に戸惑いながらも生き続けていくだろう。そしてついには、癌だろうか、単なる老衰だろうか、ありふれた匿名の死を死んでいくことになる。しかし、この奇妙な娼婦(?)は物語とともに死を迎える。物語はこの娼婦の死のために捧げられた生贄になっている。

娼婦と男の物語は読んでいて気恥ずかしくなるような見事なラブストーリーになっている。男の視点からすべてが視覚化され、目に見える世界が描かれている。それに対して娼婦の物語は触覚をたよりに手探りで進むかわりに、7つの鍵によって分節される。

男としてこの物語を読むときの歯痒さは、男が依然として生の横溢であり、死とエロスが女性の特権である点である。この歯痒さは同時に、男性の書く多くの物語をわたしがつまらなく思う理由でもある。

男はつねに、自分が不死身であることを疑わないように思える。死んでもなお魂は生き続けるといいたげな図々しさ、無神経さ、それが男性の書く多くの物語にわたしが見いだすものである。

そのような男性の書き手にとっては、おそらく無時間な空間がひろがるばかりであろう。過去の英雄譚を飽きもせず繰り返す(そんなに戦国時代を掘り返してなにがおもしろいのだろうか)。

それは死によって書き手である自分自身も有限な存在であるということを忘れている無邪気さがある。自分自身が有限な時を生きていることを忘れ、無限の均質な空間と時間という虚構と戯れている(まったく無邪気なものだ)。

「ボディーレンタル」における死は、学友である男性の死であった。彼は最後までいかにも男性的な無時間な生を自明のものとうけとっていたのではないか。その幻想を決定的に打ち破ったのが、だれのものでもない主人公の身体であった。

その身体は「生贄」における血まみれの娼婦の死体と等価と考えられる。すべてが可視であったはずの男性の視界に、不意に飛び込んでくる不可視の裂け目である。

男性にとってある物体が可視であるためには、所属関係が明確である必要がだろう。その物体が何に属しているのか。だれのものか。視界の遠近法の中で、すべての物体は遠近法という制度に属すことで初めて視覚化される。奇妙な娼婦である彼女は、Sの所有物か、または自分自身の所有物であることで、はじめて可視となる。

彼女自身が頑強にだれかの所有物であることを拒み続けたとしても、男の視線は彼女の身体が誰かの所有物であることによってのみ彼女を見つめることができる。必要であればそれが自分の所有物であるという幻想を追求する。

彼女が何者にも所属しないことが明確になったとき彼女は不可視になる。彼女自身でさえ結局自分がSの所有物でもなかったと知る。

だれのものでもない身体、なにものにも属しない身体という概念は、おそらく最近の発明ではないかとわたしは考える。心身二元論から身体の復権を狙う議論は多く存在したが、それが自己と他者の問題としてとらえられるとき、身体の所属は比較的明確だったのではないか(記憶に間違いがなければ、M=ポンティーの自分で自分の腕をつかむたとえは、あくまで「自分の」腕だったはずだ)。

その身体の所属が問題となったのは、の問題がまともにとりあげられるようになってからだと考える。主体が身体に先立つのではなく、身体が主体を確認する手がかりとなるのだ。それが「(だれかの)身体に触れる」という性的な主題に発展する。

しかし男性的な視点はつねに身体の所有関係を明確化しようとする。身体は特定のだれかの身体である。究極的には「おまえはおれのもの」になってしまう。Sのものでなければ、自分のものなのである。男性の娼婦をめぐる物語は、身体の所属をめぐる争いに終始する。その対立の構図はきわめて可視的であり、わかりやすい。

だからこそその物語は読んでいるほうが恥ずかしくなるほどのラブストーリーになるのである。

ただ、「生贄」の作者は、娼婦自身の不可視の「手探り」の物語を対立させることで、男性の視点からのラブストーリーを確信犯的に組み立てることに成功している。仮にこの「生贄」という物語を、ちょっと今風な大人のラブストーリーだと読む女性読者がいるとすれば、不幸にもその女性読者は、身体の所属をめぐる男性の遠近法に馴致されているおそれがある。

わたしが「生贄」という物語に覚えた当惑は、ここに起因するのではないか。「ボディーレンタル」で生き延びたのは、誰のものでもない身体だったはずだが、「生贄」で生き延びたのは、身体を特定の誰かに所属させようという誘惑に抗しきれない男性の方だった。

もしかすると作者は、誰のものでもない身体の物語を、「ボディーレンタル」のスタイルで語ることの限界を感じていたのではないか。学友の死という事件がありながらも、「ボディーレンタル」を一遍の学園ドラマ、青春小説と読めなくもない明るさをもたらしていたのは、「ボディーレンタル」の主人公のいわゆる娼婦としての生活と、大学生活の二重性が、同じ水準で描かれていたからにちがいない。

娼婦としての主人公と、大学の学生としての主人公を、わたしは最後まで重ねることができなかったことを告白する。まるで娼婦についての物語と、一遍の学園ドラマを継ぎ合わせたように読めてしまった。それはおそらく、学生としての主人公の内的独白に、知らぬ間に娼婦としての独白が流れ込み、居心地の悪いアマルガムを生み出していたからではないかと考える。

それに対して「生贄」は、まさにスタイルをもって鋭い解決を与えている。一方は男性による可視的な(通俗的な)ラブストーリー。そしてもういっぽうは、手探りのおとぎばなし。多くのおとぎばなしは、見えないもの(見てはいけないもの)をめぐって展開されてはいなかっただろうか。

まったく相異なる2つのスタイルを用いることで、作者はだれのものでもない身体を描きえている。その2つのスタイルの対立はきわめてシャープで切れ味の鋭いものであり、はじめは困惑していた読者を否応なしに、身体の不可視という事態に投げ込む。

このようにしておとぎばなしのスタイルに生気を与えることのできる作者に、わたしは深い嫉妬を覚えずにいられないのだ。



佐藤亜有子


1969年 岩手県生まれ。東京大学仏文科卒業。現在、翻訳業
「ボディ・レンタル」が第33回文藝賞優秀作となる。
第117回芥川賞候補