think or die :

1970年代生まれの
人たちのための
エッセー集


自由と桎梏

李長鎬『風吹く良き日』『膝と膝の間』

1997/08/23

東京に1年以上おくれて、97/8/30(土)からようやく名古屋で『韓国映画祭』が開催される。

まったく名古屋の「文化後進地域」ぶりにはあきれて物も言えない。そんな名古屋にあって、すぐれたアジア映画を紹介し続けている名駅シネマスコーレには頭の下がる思いがする(中国映画『レッド・チェリー』や『麻花売りの女』に出会えたのもスコーレのおかげだ)。

今回は名古屋での『韓国映画祭』開催を記念して(?)、李長鎬(イ・チャンホ)監督の2作品、『風吹く良き日』(1980)と『膝と膝の間』(1984)を取り上げたい。

『風吹く良き日』については、この夏、東京・千石の三百人劇場で開かれていた『韓国映画祭2』(いったい名古屋にはいつ来るのだろう?)で見てきたもの、『膝と膝の間』は近所のレンタルビデオで借りてきたものだ。

この2作品は技法上、ひじょうに対照的である。『風吹く良き日』は3人の青年が夢を抱いてソウルに上京し、挫折を味わう物語であり、『膝と膝の間』は伝統的な性役割から命がけで自由になろうとする女性の物語である。

『風吹く良き日』の3人の青年が、スクリーンからあふれんばかりのエネルギーで、金や名声を手に入れようとする物語には、強烈な上昇志向の力線がある。これに対し、伝統的な性役割にしばられ、少女時代の不幸な体験のトラウマから逃れられない『膝と膝の間』の主人公の女性は、粘りつくような重力に引きずられている。

監督の李長鎬は、これら物語の持つ力線を、『風吹く良き日』では上下の構図の多用、『膝と膝の間』では水平の構図と固定ショットで表現している。

『風吹く良き日』は、韓国ニューウェーブの幕開けといわれる傑作で、李長鎬監督が4年間の沈黙の後に完成させた作品である。民主化に向かう韓国の躍動感さえ伝わってくるようだ。

物語は3人の青年を軸に描かれる。

一人は、白人も黒人もOK、中村先生も、王さんもOKという人種差別のないホテルのオーナーになることを夢見ている。しかし、安い給料をいくら貯金したところで、かなわぬ夢。ある日召集令状を受け取り、兵役に行かねばならなくなる。

安聖基(アン・ソンギ)演じるもうひとりの青年は、食堂に住み込みで働いているが、ひょんなことから金持ちの娘と付き合うようになる。からかわれているだけだ、という仲間の忠告に耳を貸さず、彼女の高級車で初めてのドライブを楽しむが、その帰り道であっさりと捨てられる。失恋から立ち直るべく、彼はプロボクサーを目指してジムに通い始める。

最後の一人は床屋で働いていて、同じ床屋の娘と交際している。ところが、床屋の店主は、近く建設予定の商業ビルに新店舗を開くために、ビルのオーナーに彼女を紹介する。オーナーは肉体関係を強要し、彼女はいつしか夜の女になっていく(このあたり、韓国の典型的なメロドラマのパターンを意識的に踏襲しているらしい)。復讐を思い立った彼は、二人の密会の現場に踏み込んで、ビルのオーナーに剃刀で切りつける。

ラスト近く、兵役へ旅立つ一人目の青年が、「俺がもどってくる頃には、おまえは世界チャンピオンで、あいつはシャバに出てきてるさ!」と明るく告げるシーンには、思わずジーンときてしまう。

僕は、この映画はひょっとすると韓国版『大人は判ってくれない』じゃないかと思った。夢破れた3人の青年の閉塞感は、ドワネル少年の暗い瞳にぴったりと重なっているのだ。

ところで、李長鎬はこの映画の中に、ひじょうに印象的なシーンを用意してくれている。安聖基演じる青年が、金持ちの娘に連れられて、生まれて初めてディスコに行くシーンだ。

彼は初めての8ビートに、どう踊っていいのか途方に暮れる。そのとき突然、彼の脳裏にあざやかによみがえってくるのが、韓国の民族舞踊のリズムなのだ。アクロバティックな民族舞踊と、安聖基のとぼけた表情がフラッシュバックになると、とうとう彼は8ビートにのせて民族舞踊を狂ったように踊り出すのである。

僕は、他の映画でこれほど痛快なシーンを見たことがない。このシーンのためだけでも、もう一度『風吹く良き日』を見たいとさえ思う。

この作品での印象的な上下の構図は、2個所ある(この部分は、荻野洋一さんの李長鎬論を参考にさせて頂きました)。

上記の三人目の青年が、恋人と語り合う場面で、恋人が危ないわよと言うのも聞かずに、鉄塔にどんどんよじのぼっていく。鉄塔の上の方から恋人を見下ろす視線は、少し後に夜の女に身を落とした彼女と街で偶然再会して、青年が思わず彼女の頬を張るシーンを予告しているようでもある。

鉄塔に上った青年を見上げるカメラは、鉄骨がスクリーンに切り出す幾何学的な模様の遠近感とあいまって、めもくらむような高さを強調する。そこに観客は、頂上まで上り詰める希望より、転落しか残されていないという絶望を感じる。

もう一つは、安聖基演じる青年が、金持ちの娘とドライブに出かけるシーンで、脚もあらわに木登りをする娘を、安聖基が地べたに座りながら見上げる場面だ。

優越感から青年をからかう娘と、へんにいじけてしまう青年の対比が、二人の上下関係で描かれている。木の上に高くのぼった彼女は、青年が決して手に入れることのできない夢を象徴している。

『風吹く良き日』は青年たちの裏切られた夢を、上下の構図の技法でよく表現している。

『膝と膝の間』は、これに対して、伝統的な性役割の呪縛から逃れられない女性主人公の悲劇を、横方向の構図で表現している。

なお、この映画はポルノ映画ということになっているが、「そそられる映画」を期待して観ると裏切られる。テーマがひじょうに重いし、性交の描写は感動的でさえある。

フルート奏者である主人公の女子大生は、少女時代、フルートの家庭教師の白人男性に、膝を愛撫されているところを母親に見つかり、厳しく叱られたという体験から、鬱屈した性欲を持っている。

対照的な性格の姉は、現代の若者らしい奔放な生活を送っていて、伝統的な女性の役割に縛られている母親と決定的に対立している。

母親は自分が父親と妾の間に生まれた私生児であることを、まるで自分の罪のように感じているため、あくまで貞淑な妻としての役割を果たそうとするが、実は夫と別居状態にある。

その夫と正式な離婚が成立し、再婚の話が持ち上がったことから、母と二人の娘の関係に変化が起こる。

姉の方は、表面上は母親に再婚を勧めるが、内心は一人の夫に尽くすという理想的な母親像が崩れていくのに耐えられず、母を許すことができない。妹の方は、抑圧されていた性欲が堰を切ってあふれだし、一転して放縦な生活を送るようになる。

妹は、少女時代に膝を愛撫された記憶をたぐるように、次々と男性と関係を重ねる。浜辺で声を掛けてきた男、コンサートホールで隣に座った男。ソウルを離れて静かに暮らそうと移った田舎町でも、結局は不良たち(韓国版のヒッピー?)と関係する。

助演の安聖基は、妹の大学の親友で、韓国の伝統文化を重んじる古風な青年(あだなが「骨董品」)を演じている。転落していく主人公に直接手をさしのべることはできないが、最後まで遠くから見守り続ける。

その間、ソウルでは母親が二度目の結婚式を挙げ、式場で姉と涙を流して和解を果たす。この結婚式のシーン、母親に知られずに式場を出て行こうとする姉と、その後を追っていくまでの緊張感の高まりを示すシーケンスは、絶品である。

心も体もボロボロに傷ついてソウルに帰ってきた妹は、自室でガス自殺を図る。一命を取りとめた彼女の肩を、安聖基演じる青年がおそるおそる抱いてやる後ろ姿で、映画は終わる。

この作品で横の構図が強調されていることはすぐに分かる。姉が新しいマンションの窓辺に立つ後ろ姿のシーンでは、スクリーンの左半分がぽっかりと窓に割かれているし、その他の固定ショットでも、「余白」が大きく取られている。

大きな余白を残したやや引きぎみのショットが、伝統的な価値観の崩壊を経験した登場人物の心の虚しさを現わしているのに対し、性描写は、汗の一粒一粒が見えるほどの徹底したクローズアップを用いている。

一貫して強調される膝のクローズアップはもちろん、快楽に歪む主人公の顔(それは醜いようでもあり、浄化された表情でもある)、背中、その一面に汗の粒が浮いている。余白の多い突き放した構図と、ほとんど距離感を失った性描写の部分は、あざやかな対照をなしている。

ところで、安聖基演じる青年に肩を抱かれ、後ろ姿で去っていく彼女に未来はあったのか?韓国の伝統を体現している青年が、「落ちた」女を受け入れることができたとすれば、李長鎬監督は『風吹く良き日』で悲劇に終わらざるを得なかった物語を、希望につなげることに成功するだろう。

そのためには、他の李長鎬作品を見なければ、と感じる。



『風吹く良き日』1980年 カラー


製作:東亜輸出公司
監督:イ・チャンホ
原作:チェ・イルナム
キャスト:アン・ソンギ/イ・ヨンホ/キム・ソンチャン/ユ・ジイン/
キム・ボヨン



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