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脱構築するハリー
( 19981129 )

Japanese/English

このdeconstructingは自動詞でもあるし、他動詞でもある。脱構築されつつあるのは主人公の小説家ハリー自身でもあり、他の何かでもある。それはこの映画のタイトル・クレジットからすでに提示される。

タイトルのクレジットに何度も挿入される短いカットは、ほんの数秒のシーケンスの内部でさらに時間を前後させ、なおかつ乱暴なジャンピング・カットである。このカットが何度も繰り返されることによって、「一人の女がタクシーから降りてくる」というだけのカットさえ「作り物」であることを強調している。

つまり第一に脱構築されつつあるものは、映画という虚構と、それに対する現実(らしきもの)である。最初のシーンはウディ・アレンが扮する小説家ハリーと、その愛人の痴話ゲンカだ。いさかいの理由は、ハリーが小説で二人の関係を暴露したというもの。

ハリーはあくまで現実をベースにした虚構であると反論するが、愛人の方は事実そのものだと言い張る。激昂した愛人はついにピストルをとり出してハリーに銃口を向ける。その窮地でハリーは昔書いた小説のストーリーを語りかけることで命拾いする。

この最初のシーンで、ハリーと愛人は小説の登場人物の名前と現実の人物の名前を何度も言い間違える(もちろんここで言う「現実」とは、あくまで映画の中での現実であって、その現実も観客の僕らからすれば虚構なのだけれど)。映画が始まったとたんに、映画の主人公は(そして、この映画を撮ったアレン自身は)虚構と現実の境界をわざと乗り越えてしまっているのだ。

映画の中盤はアレン作品おなじみの自虐的ユダヤ・ジョークのオンパレードだ。ただ、この映画ではユダヤ人であるアレンならではの、辛辣なユダヤ人批判の位置づけは明白すぎるほどに明白である。

ハリーの姉は熱心なユダヤ教徒である男と結婚するや、手のひらを返したように信心深くなる。その姉とハリーとの口論で、ハリーがもっとも毛嫌いするのは、ユダヤ的な精神性にひそむ「唯一の××」という考え方である。

神はただ一つ。真実はただ一つ。人間として正しい生き方もただ一つ。そして「現実」として認め得るものも「この現実」ただ一つ。それがハリーの姉の現実感であり、時間観念(歴史観)でもある。

そんな姉に対して、ハリーはいい年をしていまだに安定した家庭生活を持たない。ハリーは徹底的に「唯一の××」という考え方に抵抗するのだ。

ここで問題にされているのは、現実と虚構という二元論の克服ではない。現実と虚構のどちらが「正しい」か、ということではない。

問題なのは「どちらかが正しくなければならない」という考え方そのものである。二元論を一元論に回収すること自体がおかしいのだ。むしろ現実と虚構がお互いに境界をのり越えて侵犯しあい、いくつもの可能な世界を生み出すことこそが、この映画で語られつつあることなのだ。

小説家ハリーの小説は、いくつもの「そうでもありえた」世界であり、可能的な世界の多様性は、現実と虚構の意図的な相互侵犯の多産性によっている。

もちろんウディ・アレンの映画は、脚本のレベルで虚構と現実の相互侵犯を語るだけで満足しない。映画の後半では、ついに小説家ハリーの登場人物がハリーの現実の生活に現われ、ハリーにお説教まではじめる。

さらに小説の登場人物に連れられて、現実のハリーの姉の生活を「蚊帳の外」の登場人物として垣間見る(このあたり、じっさいに映画を観てもらわないと、いくら説明しても分からないだろう)。

さらに、ハリーが小説に書いた「ピンボケ俳優」というエピソード。カメラで撮影しようとすると、どうしてもピンボケになる俳優が、よく見るとほんとうに彼自身ピンボケになっている(これも映画を観てもらわないと、何を言っているのかよくわからないだろう)。そのエピソードどおりに、ハリー自身も映画の最後で、ピンボケの危機におちいるのだ!

ピンボケとはカメラの「文法間違い」によって起こるコンスタティブ(事実確認的)な現象でしかないはずである。つまり「俳優の××がピンボケである」という言明は、普通は単にカメラの不具合からそうなっているという事実を後からのべたに過ぎない。

しかしウディ・アレンの天才は、この映画の中で「ピンボケ」をパフォーマティブ(行為遂行的)な言明に変えてしまった。俳優はカメラでピンボケに撮られることによって、「現実」にピンボケになってしまうのである。

カメラとは映画にとっての「言語」である。ここでウディ・アレンは、僕らが自明のものとして受け入れている、事実確認的な言明と行為遂行的な言明の区別を、カメラという「言語」を利用して意図的に混同してみせているのだ。

この意図的な混同は、カメラによって被写体を撮影するという行為が、単にカメラの前で起こっている出来事を事後的に確認しているとは限らないという、とてつもなく根本的な映画批判になっている。カメラは撮ることによって被写体(の未来)を変化させるのだ。

事実確認と行為遂行の意図的な相互侵犯は、もちろんこの映画のストーリーのレベルでも繰り返されている。ハリーは小説を書くことによって自分の生活をメチャメチャにしてしまうのだ。

このアレンの映画は、物語のレベルと映画技法のレベルの間の境界さえも自由に乗り越えながら、「脱構築」という主題化不可能な主題を見せてくれる。

最後は小説家が小説を書くことによって救われるというハッピーエンドになっている。それは「主人公は現実から虚構の世界へ逃避することで安住の地を得た」という意味ではない。現実と虚構のあいだを自由に行き来しつづけることでしか、この小説家ハリーは、そして映画監督アレンは生きていくことができない、ということだろう。

「永遠にさまよえる民」であるという点においてだけ、ウディ・アレンはみずからの起源に忠実であるということだろうか?

ウディ・アレンの『地球は女で回っている』を観た。しかし『地球は女で回っている』とは、なんとヒドい邦題だろうか。原題は Deconstructing Harry 、つまり『脱構築するハリー』だ。


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