


廣津柳浪『花の命』
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20030322
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少し暇があったので、国立国会図書館・近代デジタルライブラリー所蔵(全国書誌番号:41010334、請求記号:YDM94996)のデータを『青空文庫』風にテキストファイル化してみた。同サイトで閲覧できるスキャン画像を見ながら、パソコンに入力していったということだ。廣津柳浪作品の中でもこれを選んだのは、『青空文庫』に入っていなかったこと、インターネットを検索した限りでは、誰もテキストデータ化していないようだったこと、明治22年10月の『残菊』とほぼ同時期で、同年11月、廣津柳浪のごく初期の作品であることと、そして何よりも短かったことが理由だ。
まさに心中しようとする若い男女に出くわしてしまうという物語は他愛ないが、心中という主題と廣津の出逢いを象徴するような内容に、これってメタフィクションなのでは?と疑いたくなる短編。ルビ表示用のタグを使っているので、できればMicrosoft Internet Explorer 5.5以上でお読み下さい。ルビが読みにくい場合は、Webブラウザで文字の大きさを「中」にしてどうぞ。
序
苦楽。無分別は皆これから。引窓に生た夕顔。ナンノ壱両や弐両の事にと。逆屏風にする異見。仮籠の奈良街道で。遣い残した二歩への愚痴。何じや意氣地がなひと。見台を見上げての慷慨。其身になってはそれが命。後朝の露に袖ふれぬ人。明烏の批判は盲目の色沙汰。見た積りで見た様に。鳥渡身に染小夜嵐に。散かかった花の命。月の光では凄かつた。それが日の目ではこれ。uもなき大膽から天晴の物笑。招ひたは矢張其無分別―――好から出た楽しみ。楽しみから出た無分別じや。分かる程殖るは楽しみと申すじやまで。お積りで御評判御評判
明治二十二年今の世にも地獄の蓋が開く三日前 柳浪子識
上の巻
散りも初めず咲も残らぬは、時を得た花の風情、梢はなれて雪と見するも、亦時を得た花の風情。これは共に自然の美しさでせう。無情夜半の嵐に、空しく地に委する落英の果敢なさ!それを、潔よう散ればこそ櫻と、花の本意らしう興がる人、まだまだ真の花見ではありません。それも自然と云へば云はるゝようなもの。散りたくもなきに散らねばならぬ花、静心なく散るに比べては―――これが人ならば・・・・・・。
指を折ば最早三年の昔話。時節は四月の廿日過ぎ、私は谷中初音里の蝸廬を出て廣小路を志して、上野の公園を斜めに辿りました。二日三日前迄は、雲か霞と望まれた櫻が、夕暮の鐘に散る花もなさけなき花守が箒目清く、彼方此方に一団としたは、丁度紫陽花の希物見る様で、梢にあつた時の俤は跡も止めません。数も知ぬ烏啼、何を争ふての友喧嘩と、見れば棲に帰るのか、後になり先になつた一駐秩Aそれが輪の形になつて、空も藤色に見るばかりです。夕方は淋しく静かな筈の権現の社内、それが案に相違した此有様。塵毛立って凄く、さやさやと音するは、何かと見れば、名残惜しうて親木へ取すがつた去年の杉の枯枝が、哀れ知ぬ烏の瀦翌ノ果敢なくも落る其脆さ!、それでなくて私は鋭敏な神経質、淋しいかと思へは喧がしく、喧しいかと見れば物凄い、あの花、あの鳥、此杉―――山の奥にも鹿は鳴く―――妙に無情を悟つたような心持、覺へず足も其處に止ります。偶見れば、五重の塔の蔭に、背面を見せた一人の人。
椽廣の鼠の帽子、椽垂れて深く冠り、藍鼠の縮緬の頷巾、耳を掛て厚くつゝみ、藍萬の結城の註D、膝迄はまだ五分ばかり、茶萬の同じ小袖、踵を包んで些長し。身材は高く、姿は痩て、肩のかゝり腰の鹽梅、年の頃二十・・・・・・三四?五六。顔を見ねば能くは分かりません。先づ一口に評さうなら、其姿―――娘にも受け、其打扮―――藝人にも好かれさうな。
私が踏む落葉の音に一寸此處を向て、また直に背面を見せました。此一刹那に私が認めたは、其美しい眼で、太く活発なよりも細く優しいです。が、私を見た眼は、力身がなくもありません。それは恐らく景色ばむだからで、平生がこれとは思はれません。色は男には過ぎて白く、鼻より下頷巻に包まれた形は、水鳥に愚痴をこぼした昔男、今の華族様にありさうな顔です。優にやさしいと云へば云はれませう?活発な女学生なら==いやよ、にやけてゝ==萬更の悪評でもありません。先に『好かれさうな』と云つたは、私の熟せぬ想像でした、駒下駄の丈高く、白革の鼻緒の太いのを見るに付ても。
私は其人に對つて斜めに進みました。其人は五重の塔を廻って私を避ける様子。扨も不思議!耳に針打るゝ寒天ではなし、頷巻に半分隠した顔、葉櫻と捻る人体とも思われません。好し、それにした所で、人に顔見らるゝを好まぬ風情―――女ならコイネスとも受取ます―――何の疚しき事があるのでせう?私が彼を見返る時、私を見送つて居た其眼は、直ぐにあらぬ方にそれて、知ぬ顔を作ります。更に試せば、矢張それ。思へど知た人私を弄る為の悪戯か―――覺へず足を其方に向ました。類を以て集る私の朋友、如此美男薬にしたくもありません。友人の似顔女難除の守りになつて、専売を願つたは昨夜の夢。私は漸と断念めて石燈籠を潜つて石疊を横に切り、又石燈籠をぬけて振向くと、家を出る時には彼方此方の雲に化粧をして居た夕照の美しい紅、それも褪て見るは杉の梢ばかり。仇し野の昔語、夢にでも見るのか、さしも啼立て居た烏、遠く幽かに二・・・・・・三聲・・・・・・。
全くは暮ても仕舞ませんが、五六間先はハキと道も見へぬ位です。路傍に立つ大燈籠、化燈籠と聞た事思ひだしては氣味能もありません。急いで黒門を出ますと、前は少しなだれになつた阪、足に心を取れて、それを下る途端バツタリ・・・・・・突當つたは人。先から掛られた聲―――棲に迷ふた鶯の調子外した風情。
御免下さいまし。心が急ましたので、ツイ・・・・・・
合出頭に額は能あるやつ、殊に先は女。それでなくて何方から突當つたか、額に尋ねた所で柏手を打て何方が先に鳴たと難じた昔話の様なもの。
イエ、何、私こそ...御免下さい。
思はず見た女、私は其美しさに打れて―――頷に氷―――覺へず戰慄ちました。判然とせぬ時却つて美しさは増もの―――夜目遠目傘の中―――色の白さ、殆ど判然と見へる程の白さ、それを楕圓形に形造つた頭巾は一層其美しさを添て居ます。眼を太く清しいと思ふたばかり、鼻の格向、口の愛嬌、それを視察する便宜・・・月にても出よかし。それに私には僅かに半面を見せて、前後に氣を配る様子です。そして少し波打た聲で、私に問ます。
五重の塔に行ますには・・・・・・若し人が・・・・・・まだ人通りは御在ませうか。
此切ゝになつた問、充分了解する事が出来ません。私は其答に躊躇しました。女は私の答を待ず、一寸顔で會釋して直に足を移します。其後姿―――物は知れませんが、慥に黒の註D、紋があつたら其人品今一層立上つて見ませう。裾さばきの鹽梅、小袖とは思はれません、恐らく二子縞位の所。男でさへ餘り氣味能ない権現の社内、日はドツプリ暮て居るに唯一人―――連もなくて女の唯一人、大膽な―――人の怖ろしい事知らぬとは。通馴た谷中あたりの女か。あれ程の女、是迄ついぞ見掛た事はありません。私に問た様子、思へば道も能は知まい。あの凄い杉の林に・・・・・・石疊を渡る駒下駄の・・・・・・モウ女は入込だらしい私は此時フツと思出した、先程のあの男を。それと一處に思付たは、女が私に問ふた言葉『五重の塔に行ますには』『若人が』ハハア、畜生、此奴出會だな。斯ふ思ふと妙なもの、奇を好む心に嫉妬心も少しは交り、其様子が見たくなります。そこで私は足音を忍ばせて、石疊の上迄立戻り、石燈籠の間から覗きました。暫し見せて居た白足袋のちらつきも、落葉踏音ばかりになります。男か女かは知れませぬが、能は聞取れぬ程の聲・・・・・・小走りに走る足音・・・・・・話らしい細語も極軽く私の鼓膜を叩きます。私の足は猶進みます、それを心は咎めました―――人の秘密を立聽く、約束の時間を違へる―――好事と嫉妬の勇氣も大に衰へて、私は又黒門を出ました。が、彼美と戀とが形になつた二つの動物は、猶ほ私の想像の山野を、さも愉快らしく逍遙し狂奔して居ます。私が此時非常に感じたのは『儘ならぬ戀情』それが都ての感情に打勝て、あの大膽な娘となつた事です。そしてあの森を見上ますと、黒白を分ぬ闇は充分に其天幕を張て、下は『無分別』の住家―――ああ『白露』の置所となつて居ます。扨も・・・・・・戀は曲者!
中の巻
私が歸途に就頃は、最早十二時少し廻つて居ましたろう?今度は不忍の池に添ふて道を變ました。まだ月も上らず、此頃の癖とて空もドンヨリと曇つて居ます。月初め迄は亂拍子に笛を吹て居た池の水鳥、今は舞ふ其忠ケも聞えません。春とは申すものゝ上野颪の北風、流石に身に染なくもありません。一寸先も見えぬ闇は、私が提灯を用意せぬ不注意を戒しめ顔です。権現の阪下に、睡さうに役目を守つて居る常夜燈を目的に、漸と辿り着きました。其阪を見上ますと、下の方の阪石が五六段見ゆるばかり、何處となく淋しさの神が、うなりを洩して居ます。あゝ、此淋しさの神殿に、果敢ない情を遣る、あの男女の苦楽の有様は、マア如何様でありませうと、私の好事心は猶予なく阪に足を進めます。が、考へれば馬鹿馬鹿しい話、あれから五六時間も過た今、猶ほ彷徨て居やうとは思はれません。好事にも程のあつたものと自分ながら覺へず失笑ました。常夜燈を離るれバまた闇、けれどもそこは通馴た道。弓形になつて居る花園町も通過ぎ、清水町の角にある巡査交番所の前に来ました。真直に行バ清水阪の下に出ます。右に屈れば本名は何と云ふか、俗に暗闇阪と云ふ阪に掛らねばなりません。谷中の三崎に行には右に屈るが少し近いです。それで私は右の道を取ました。名から暗闇阪―――晝でさへ闇さが此の阪のモノポリ―――切通しになつて居る左右は、意地悪く臂を張た大木に圍まれて、上を見れば遙かに朦朧と空が不規則な道を作つて居ます。あの大膽な娘―――戀に感情が痴鈍つたあの娘でも、恐らく此阪は越れまいと思う位。私は僅かに阪上に辿着て―――窒息した小部屋を出て、品川沖でも見晴した様な心持―――思はず胸を摩りました。其右は即ち護國殿です。私は花の頃には毎日の様に此境内を遊歩しました。其頃試みたい試みたいと思つた事が、不幸にもフイと胸に浮びました。それは外でありません、一度は此地の夜の景色を見て置たいと思つた事です。けれども、如斯闇に何の景色がありませう、私の好事心は幸に躊躇しました。が、さもない事を面白さうに感ずるのが好事心です。此境内の暗夜の淋しさは、如何であらう?此阪と何方が凄からう?斯ふ考へると矢も楯もたまりません。終に此境内を探る事に決心しました。脇から見たら、憑狐とも見へましたらう?今考へると自分ながら本気とは思はれませんものを。
此境内の入口には、幅二間長さ二尺程の石橋が、溝に架られて居るのです。それを渡ると道の左は寺の生垣になつて右は櫻の並木です。十間ばかり進んだ所に石疊があつて、それが護國殿に續て居るのです。素より道は廣くありません。豫て案内は知て居ますが、少しでも見當を誤れば不便とは額です。先刻の鉢合、あれが女だから我慢が出来た様なものゝ、櫻の幹や生垣の杉、割にも八にも合たものじやないです。私ハ両手で闇を撫ながら、少し反身になり、足で探り探り―――杖に離れた座頭―――愈々境内に入込ました。左に杉葉を攫んでは右に避け、右に櫻樹を拂つては左に外し、凡そ三十歩も進みましたらう?杉にも櫻にもさはらなくなりました。最石疊の所と足で探ても障りません。其様に遠くはない筈ですから、方角が違ひはせぬかと、足を止めて考へました。斯ふ身を落付ると、今迄は左程感じなかつた淋しさが、首筋から染込様で、其凄さ―――何と云つて例へるものはありません。何處となく遠く虫の音が耳を貫く様で、シーンとして居る、これより外に形容の仕方はありません。凡そ浮世の聲と云ふ聲、此處には毛もありません。唯遠く切々な犬の聲、それさへ淋しさを添える助けになるばかりです。私は後へも歸れず先にも進めず、今更uにも立ぬ後悔をするばかり。此上に雨でも降て来てはと、少し怖くもなり、空を見上る途端に、さつと音がして山も震ふばかりの葉鳴、雨かと思へば夜嵐。曇つて居た空も晴て、星も二つ三つ葉越に認められます。やれ嬉しや!此星を目當に、早く境内を出やうと考へて、再び座頭を學ばふとする時、私の聽神經は頭蓋骨も粉砕する程、ズーンと激動を與へました。それは・・・・・・泣聲―――人の・・・・・・近く微かに・・・・・・怖ろしさに撃れて、私は息も吐ぬ位ゐ。
流石に逃ると云ふ考へも起りません。二度目の啼聲を聞た時には、氣も少しは落付て、怖ろしさも幾分かは減じました。氣が落付ば疑の心も起り、疑ひの心はそれを探らうと云ふ念を生じます。が、それに近付ふと云う勇氣も出ないです、其正体も分らず、其距離も測られませんものを。先方から先に見付られるは不利uと考へ、何かと手で探ると、觸つたは何の木か、大きな幹です。是れ幸ひと小立に取て、其根に蹲踞ました。そして耳を澄して様子を伺ひます。泣聲は女―――女のすゝり泣聲で如何にも思迫つたらしいです。私の瞳子は確と其方角を認めました。凡そ六七軒ばかりの所に、何か木らしいものが、方二間程白く見ゆるは其梢か、それが極僅かな明りを作つて、下に人らしい形が朦朧と現はれて居ます。私は髪の毛が逆立かと思ふ程、頭を〆られる様で、それを奥歯に噛み拳を握つて総身に力を入れ、僅かに耐忍して居ます。如何にも臆病過る様ですが、其場に臨んだ事のない人には、此味は解りません。私が一つと思つた形は二つになつて、そして坐つたのであるか、僅か二尺ばかりの丈に見へます。其二つの間は、恐らく壱尺程の距離を有つて居そうです。
少時して曇をもつた男の聲―――云ふ迄もなく忍音です。
優しい慰めの聲、それが却て女の泣聲を勵まします。女は切々の聲―――動もするとはずみたがる傾きの聲、それも能くは聞取れません。
跡はまた泣聲。
そりや幾度云たつて仕様がない・・・・・・お前が私の母親に濟ぬとお云ひなら・・・・・・私もお前の両親に申譯が・・・・・・其處を両方で義理立てすれば別れるより・・・・・・
二人の形が一つになつて、すゝり泣聲・・・・・・亂れ散た抜糸の様な。
これで凡その来歴は察しられます。女は男の家に奉公して居た侍女らしい。其主従がこれ程の中−親子の愛情にも代られぬ程の交情。戀は親子同胞朋友を認めぬとはこゝの事。私は何となく心嬉しい様な心持がする。人の憂を楽しむ譯ではありませんが、容易積む事の出来ない經験、それを今此處で實驗するのハ戀の働く有様を察するに、得難い好機会を得たからです。が、『覺悟』男の云た言葉、それを言換れば如何意味をあらはしませう?これか私のブレインに淺からぬ注意を與へました。私は猶ほも瞳子を凝し耳を側てゝ居ます。
下の巻
何時迄愚痴を云てゝも、未練を増ばかり・・・・・・お賤彼處に行ふ。
あの護國殿の廻廓の事だよ・・・・・・夕刻から、公園の中を彼處此方歩行て見ても・・・・・・何處へ行ても氣後れがして・・・・・・先刻撞たのはモウ三時だろう・・・・・・夜が明て仕舞ば、また一日の苦勞・・・・・・あの廓下が最後の・・・・・・お賤来な・・・・・・
今度は愈々覺悟をした・・・・・・今迄死後れたのも乃公の未練からだ・・・・・・お賤、お前にも耻かしい。
あゝ、『覺悟』それを言換た意味―――私はブルブルと總身が、電氣に感じた様に戰慄ます。勿論彼を救助やうと思ふ心も發動します。私は立上つた。二人の姿は徐々と動出して、私に向つて進で来る。私は不思議に氣後れがして『情死待た』とも云悪く、覺へず足を止めました。
此時月の利鎌は森の梢頭を切抜け、斜めに青白ひ光を放ちます。其光を受て一層明りを強めたあの白い梢は、一本の晩櫻が枝もたはむばかりに咲亂れたので、それが小夜嵐に、ちらりちらり、名殘惜さうに散て居ます。
私と石疊の間は二間半ばかり。私は充分に見當をつけた積り、それに如何して迷込んだか、道からは斜めに右に、護國殿とも二間半ばかり、丁度石疊と正三角形を作つて居ます。二人とも未だうら若く、とぼとぼと其力なさ!女は袖を顔にあて、男は頭を垂て思案に暮た風情、羊の歩み、迚も比較にはなりません。石疊に足を踏掛て月を見上た男の顔―――正しく五重の塔に佇んだ男。下から男の顔を覗く女―――疑もなくあの大膽な娘。其時は浮て艶めいた戀、今は沈んで哀れな戀。其時は嫉ましい動物、今は果敢ない人。行潦に漂ふ蟻虫にさへ、救助の手は下ます。是はまして―――今迄も念頭を去なかつたあの娘・・・・・・あの男。私は聲を掛やうとしました。が、閃めく電光、それが女の胸に輝く迄には、まだ迫つて居りません。死たくなきは人の情、また心が變らぬとも限れません。今聲を掛て驚したら、一時表面丈は其念を止めませうが、此地ばかりが死場所でもありますまい、二度の駈を試みるは定です。それで私は考へました。白光の鞘を走つて耀く時、其時に取押へて、無理にも之を説得して、娘の家に送届け、時誼によつたら彼等の情を遂させ様と考へました。私ハ終に猶豫しました。いや私の猶豫したはそればかりではありません。私が當惑したは、今それを止る辞ネのない事です『情死すいるのは悪い了見』斯ふ呼掛て『いえ情死するのではありません』と外されゝば、氣の毒な思ひをした上に、指を啣へるばかり。それも殘念と思ひました。併し、注意は少しも怠りません。
二人は石疊を堂の方に進みます。見れば、男は右の手に其長さ壱尺許りの、黒い棒の様な物を提て居ます。私には確と何物とは認める事が出来ません。が、刃物であらうとは推測しました。漸と階段を上つた二人。覺へずドサリと腰を落した男の風情、既に魂魄は抜去た様です。如此時にも女は精細なもの、帯に挟んだ頭巾を取て、徐かに塵を拂つて、それも同じく腰を掛ます。そして力なさゝうに見合せた顔、それを互に背向て、仰向た男の頭はふるへ、顔を掩ふた女の袖は、切々に泣聲を洩します。男はさも真から出た聲。
あゝ死たくない。
よゝと泣は女。
御尤で・・・・・・私も死たい事は・・・・・・
私は私の想像の違はなかつたので、心から嬉しく、思はず笑を含みました。
一時間でも遲く死たい・・・・・・あゝ、夜明にも間はあるまい。
エ、モウ夜が・・・・・・何で如斯に短いでせう・・・・・・
芝居なら、男が死たくないと云ば、其薄情を恨んで、怨言の数々を列べるが女の持前。それに此男女互に死たくない情が溢れて居ます。これが實に人情の自然、真に隠しのない所でせう。『一時間』それを『一呼吸』と言換ても、恐らく此時の真情を寫出す事は出来ますまい。夜が短ひと悲しむ女の心、想像るも傷心の限りです。
生て居れば生て居丈け、それ丈の苦勞をせねばならぬ・・・・・・あゝ外に思案もないか、エゝお賤・・・・・・
身分の違つた郎君と賤妾・・・・・・如何して・・・・・・どうしても添ふ事が出来ないとは・・・・・・實に因果な・・・・・・此先種々な苦勞をしませうより、私はいつそ・・・・・・どうしても死だ方が・・・・・・
ムム、如何しても死より外には・・・・・・
想へば經驗のなき此男女。愛情の最高の熱度は、彼等が想像する様に長時間繼續ものではありません。愛情の熾盛な時代は、長くて三五年の上を出るものではありません。一時の苦痛、それが際限もなく繼續ものと思へば、薄弱い心から終に失望して、性命迄犠牲にして之を脱れやうとするのが、鍛錬れない戀情の常です。あゝ、失望は真に情死の母!
無殘!太陽―――昨日迄もこれで、性命を繋ぐ太陽。今朝はこれで死を促す太陽。其先陣に進む紫の吹流は、東の空に靡いて其陣立の白く輝きは、早や月宮殿を攻撃します。
二人は手と手を取交して、ジーツと見合す青白い顔、それを洗ふ涙は瀧津瀬。稍暫くして男は手を放し、脇に置た一尺ばかりの黒い物を取上ます。今見れば、それは錦の袋、中は家重代の寳劔か、九寸五分にしては長過ぎ、差添へにしては寸が足りません。見た處は天晴の業物、昔はこれで強敵の首を掻いた、今はそれが子孫の腹を貫く、佛者に云したら、これも因果の理りじやて。
エー、・・・・・・お賤・・・・・・
又見合す顔、名殘は何時迄も盡ぬもの!男は袋の紐を解掛ます。女は頭巾で膝を縛つて、西を向て合掌します。私ははづむ意の駒の手綱を押へて、去来と云はゞこれに一鞭、瞬の猶豫もありません。現なき顔―――女の観念の顔、其色はまるで死だ人、涙に腫た眼を閉いで、念佛を稱へるか唇はわなゝひて、合掌した手は震へて居ます。膝でヂリヂリと女の前に廻つた男、唇を確と噛で女の顔を見詰た眼、其凄さ!怖ろしさ!袋に掛た手も戰へて、なかなか芝居で見る様に色氣のあるものではありません。
お賤・・・・・・よ・・・・・・よいか。
あら!此一髪・・・・・・此刹那―――こゝ有漏路無漏路の別路。私は一足前へ踏出します。
驚く聲、ドツサリ音。
エッ。
男は尻居に倒れて呆れた顔。手に持は明晃々たる劔と思ひの外―――これはそも―――一巻の巻物。
慥かに馬手指・・・・・・如何してこれが・・・・・・此卒業證書が・・・・・・不思議・・・・・・
先祖から相傅の左文字・・・・・・慥かに此袋に・・・・・・ン、若や慈堂が此中に・・・・・・重代の寳物にも代て此卒業證書を・・・・・・
失望した二人の顔―――戰きの色は、却つて薄らぐも不思議。私は張詰た力も抜て、總身がまるで打れたあと。
危なく散して仕舞ふとした花の命―――小夜嵐も今は朝風―――長閑にそよそよと。
さう泣て呉ては、猶更未練が殘つて・・・・・・エゝモウ、お泣きでない・・・・・・よ・・・・・・
モウ・・・・・・モウ泣は・・・・・・幾度云つても返りま・・・・・・返りません・・・・・・嘸奥様が悪・・・・・・にく・・・・・・悪い女と・・・・・・御恩に・・・・・・あれ程御恩になつて・・・・・・それにこの・・・・・・濟ません・・・・・・
それが出来ます位なら・・・・・・こんな苦労も・・・・・・
それだから・・・・・・此覺悟も・・・・・・
エ、彼處とは・・・・・・
ハイ・・・・・・それでは・・・・・・愈々・・・・・・
それなら若様・・・・・・
アゝ、夜が・・・・・・
オー、東が・・・・・・
若様・・・・・・これが・・・・・・
ハ・・・・・・ハイ・・・・・・
オオーこれは・・・・・・
エーマアそれは・・・・・・
そんなら刀は・・・・・・
死事も・・・・・・
ウーン・・・・・・


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