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![]() サイバースペースにおける身体 ( 19971113 ) 僕がこの書物を知ったのは書店で偶然立ち読みした「新潮45」に掲載されていた、神戸小学生連続殺人事件に関する柳美里の文章の中である。そこに渡辺氏の作品と、それに対する中学生たちの反響の文章が引用されていた。 幻冬舎から文庫化されたばかりの「マザー・ハッカー」をさっそく手に取ってみると、解説が柳美里の筆によるものになっている。この書物は、星新一や初期の筒井康隆にも通じるショート・ショート形式で書かれているが、それら作品群を読み終えてから、柳美里の解説に目を通したとき、残念ながら僕は彼女の小説作品から味わうことのなかった違和感を強く感じた。 「マザー・ハッカー」は最先端の情報技術を通奏低音として、近未来社会を描いた寓話集である。その意味で、同じくさまざまな(今となってはややオールド・ファッションだが)テクノロジーが引き起こす人間の悲劇を描いた星新一のショート・ショートを懐かしく思い出させる。僕は小学生のころ、星新一のショート・ショートをほぼ全作品読破するほどの熱心な読者だった。 ただ、「マザー・ハッカー」はより悲劇的で、切迫感がある。「1999年のゲームキッズ?」という副題が示すとおり、作者の渡辺氏は、これらの物語に描かれた世界はそう遠くない未来であることを確信している。 さて、問題はこれらの物語群の悲劇性に、何を読み取るかだ。柳美里は電脳社会を全面肯定した作品だろうという期待は裏切られ、渡辺氏が「小説を通して近未来の危機と対じしようとしている」作家だと知って共感している。彼女はこの物語群に「コンピュータは決して特権的に神の座に就くべきものではなく、そこには人間的な生のリアリティがなければ無意味だ」というメッセージを読み取ってしまっている。 はたして、「マザー・ハッカー」をそのようなヒューマニズムに回収することができるのだろうか。これが僕の大きな疑問である。 僕は、柳美里のように自分の問題関心に引きつけて渡辺氏の作品を解説する立場よりも、渡辺氏自身、あるいは、彼の作品に共感している「ゲームキッズ」に近い立場にあると感じる。 第一に、ヒューマニストたちは情報技術の高度化による人間性の疎外(なんと古風な問題設定だろうか!)を端的に悪と考え、そこからの人間性の回復のために戦うが、一方、僕ら、あえて僕らと言わせてもらうが、僕ら「ゲームキッズ」はたとえ悲劇的な未来であるとしても、それに対する価値判断を一切さしはさまずに、新たな時代の到来を歓迎し、待ち望んでいるのだ。 このことは、柳美里自身が「新潮45」の記事で引用している、渡辺氏の読者の声に現れている。 「最近は、ネットで知り合った友人と、交換殺人の相談をしています。相手の両親を殺し合う相談です。僕と彼はおたがいに本名も知らない仲ですから、うまくやれば完全犯罪になると思います。計画が成功したら、また連絡します。(匿名希望/男)」 これに対する渡辺氏による痛快なコメントは実際に本書に当たっていただくとして、柳美里は「新潮45」の記事でこうした読者の声に「恐るべき子供たち」を読み、「戦慄」をおぼえている。 しかし、この読者の声をそのまま生のリアリティあるいは、現実とバーチャルなものの境界を失った病的な少年ととらえるのは、電脳社会に対するあまりの認識不足である。この読者の声には2つのポイントが隠されている。ひとつは、ネット上で見えない友情がはぐくまれたことについての少年らしい(?)無邪気な喜びであり、もうひとつは、親の世代に対する強烈な不信感である。 さしあたりまったく別の次元で論じるべきこれら2つの問題こそが、渡辺氏と読者の共有する問題意識なのである。たしかに「マザーハッカー」の物語群は例外なく悲劇的な結末を迎えているが、それは、ギリシア悲劇が運命の力の偉大さを讃えているのと同様に、情報技術の力を喜びをもって称賛しているのだ。 そこに表現されているのは、柳美里が誤って読み取ったような情報技術への不信感ではなく、情報技術の進歩に寄せる限りない信頼であり、それによってもたらされる奇妙な世界に対する喜びである。 そして、それに付加された「親の世代に対する不信感」という主題は、情報技術礼賛とは独立した旋律となって物語群のポリフォニーを形成している。「親の世代に対する不信感」の主題にとって、情報技術とは手ごろな武器に過ぎないのだ。 「マザーハッカー」の提示する図式は、情報技術対人間性一般というヒューマニストの図式、つまり、柳美里がいみじくもコンピュータを神にたとえているように、情報技術が人間を超えた存在として人間を支配するという構図ではなく、情報技術を信頼し、それによって武装した人間同士(子供対親、夫対妻など)の対立である。これを認識した上で、ではなぜ人間同士の対立を先鋭化させるものが、情報技術であるのか?と問わなければならない。 ここにヒューマニストたちの、情報技術にかんする根本的な「誤解」がある。ヒューマニストが情報技術を人間性と安易に対立させるのは、情報技術に人間的な現実の喪失、身体的な生の経験の喪失を読み取っているからだと思われる。つまり柳美里の書いている「人間的な生のリアリティー」の喪失=電脳社会という先入観である。 しかし現実はまったく逆である。本物以上にリアルなイメージを再現しうる技術の出現によって、以前にもまして人間の身体性の問題がはっきりと輪郭をあらわしてきたのだ。バーチャルリアリティーの高度化は、人間に身体を忘れさせるのではなく、ますます鋭く身体を突きつけてくる。だからこそ、「マザーハッカー」の物語群は、いたるところで生身の人間の血や肉が言及されるのである。もっと言えば、バーチャルリアリティーの内部で、人間ははじめて自分自身の身体というサルトルがもっとも忌避した粘液質の物体に手足をからめとられていることを思い知らされるのだ。 ここまでバーチャルな世界が発展して初めて、人間は自分自身の持っている、もっとも身近な物質であったはずの身体というものに目を向けるようになった。「ここ・いま」という人間存在のあやうい事実性を、もっとも本質的なレベルで支えている身体というものに気づいたのである。たとえば、多重人格者を多重人格者であると同定できるのは、彼または彼女がひとつだけ身体を持っているからだ。仮に人格の数だけ身体を持つ多重人格者が存在したとすれば、僕らは単にいろいろな人々と呼ぶだけだろうから。 この物語群が、柳美里にヒューマニズムの誤解を与えるだけの欠点を持っているとすれば、それは「マザーハッカー」がとてつもなく陳腐な性役割の物語になっている点である。これは、身体性が先鋭化される電脳社会のシミュレーターとしては致命的な欠陥と言える。 つまり、「マザーハッカー」に登場する男女は、きわめて伝統的な男らしさや女らしさにやすやすと身を任せている。教育ママ、夫の収入に寄生する愛のない妻、少女をめぐる恋争いから、強制猥褻未遂の描写まで。柳美里がこの物語群に感じた「懐かしい響き」の一部は、おそらく伝統的な性役割によってかもし出される、ある種ロマンチックな雰囲気なのかもしれない。サイバースペースにいつのまにか浪花節が混入しているのである。 はじめて電子メールを受け取ったとき、相手が男か女か分からないというのは、サイバースペースの初心者が誰しも経験することである。サイバースペースは本質的にトランスジェンダーな媒体なのだ。徹底された電脳社会は性の署名を書き込まれることを拒むはずである。 サイバースペースが身体を問題にする仕方は、それほどまでにラディカルなのである。サイバースペースはユーザーの身体を消去するのではなく、言語という別の身体に置き換える。フェイスマークは僕らのもうひとつの身体であり、サイバースペースがもうひとつの身体の容器になりつつあることを示している。 そんなサイバースペースの文学は、もはや気の利いた物語の様相を呈している文学ではなく、一部の作家がもっとも忌避しているその「物語」という粘液質の身体を、言語そのものの身体性に置換した、言語がヒーローでありヒロインであるような文学なのではないだろうか。たとえば高橋源一郎の『さよならギャングたち』のように(?) このテーマについては、いずれさらに敷衍したいと思っている。
その作品の一部はフジテレビ系『世にも奇妙な物語』の原案になった 無断転載禁止
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