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有限な存在、事実としての記憶

松本零士『銀河鉄道999』劇場版

2005/07/24

週末に何気なく借りたdaft punkのミュージックビデオ『INTERSTELLA 5555』をきっかけに、二十年以上ぶりに松本零士アニメを観はじめて、今日なんとか一段落つけることができた。劇場版『銀河鉄道999』と『さよなら銀河鉄道999』を一日のうちに観終えた。

『銀河鉄道999』の劇場公開は1979/08/04だ。少しなつかしい映画を観たいと思っただけなのに、その映画がすでに26年前の作品だとは。時の流れは残酷だ(いつもとちがって妙に芝居がかった文体になっているのは、立て続けに『銀河鉄道999』を3本も観たせいで脚本の影響をうけているためで、お聞き苦しい点はご容赦いただきたい)。この26年の間に一体なにが起こってしまったというのだろうか。年を経るごとに、過ぎ去った日々はますます奥行きを失い、十代の思い出は何もかもがいっしょになって、記憶のはるか遠く浮かぶ額縁に、色あせた写真のようにしっかりとはめこまれて、もう直接触れることすらできなくなってしまった(くりかえしになるが、妙に芝居がかった文体は『銀河鉄道999』の脚本のせいである)。

それでも26年ぶりにその映像を目にすると、まるで劇場で感動に胸をふるわせたのがつい昨日のことのように思い出される。肉体は26年の年月を刻み、確実に成長し、一部分は確実に老いていっているにもかかわらず、感情の記憶は26年の年月をたちまち飛び越して、今、ここの生々しい感情としてよみがえる。しかもその感情は26年前と何ら変わることのない内容をもった感情だ。まるで26年前の僕自身が、今日こうして『銀河鉄道999』の映像とともに、自分の少年時代が永遠にかえらぬ思い出でしかなくなってしまったことを悲しむだろうことを、あの1979年の夏の劇場の中で予想していたかのように。

あのとき僕にとっての少年時代は、メーテルの幻影とともにすでに失われていたのかもしれない。あれからの26年間は僕にとって、すでに失われた時間の喪失を追認するためだけに流れたのかもしれない。それ以外に、この26年間のうちに何が起こったと、確実に「起こった」と言えるだろうか。

私小説じみた独白はいい加減にして、映画の内容に入ろう。先日の『新竹取物語1000年女王』についてのエッセーを書いた後、メーテルの少女時代を主題にした『メーテルレジェンド 交響詩 宿命』のDVD2枚を観て、クイーン・エメラルダスとメーテルが、1000年女王ラー・アンドロメダ プロメシュームの双子の娘だったということを知った。ところが『さよなら銀河鉄道999』に登場する魂としてのラー・アンドロメダ プロメシュームは、はっきりとメーテルのことを「一人娘」と呼び、メーテルの故郷である惑星ラーメタルの、かつてメーテルが母親とともに住んでいた古城にはエメラルダスの肖像画は存在しない。

こんな銀河鉄道999マニアみたいなことを、いい年をして延々と書いていると面はゆくなってくるのだが、要するに言いたいことは、物語が完全に破綻しているということなのだ。松本零士がやっているのは、新興宗教の教祖に似て、破綻した自分の世界観の見苦しい辻褄あわせなのである。すでに少年の心を失ってしまった現在の僕は、2本の銀河鉄道999劇場版を、やや興ざめな感覚を味わわずに観ることができなかった。

ただ、物語の破綻や何度もくりかえされる青臭いメッセージに、現在の僕がいくら鼻白んだとしても、それでも少年の頃の僕自身が銀河鉄道999の物語に心を動かされ、メーテルの幻影を追い続けていたという事実は変わることがない。その事実が変わらず僕の記憶に定着されつづけている限り、現在の僕はその事実としての記憶を通して、あの頃のメーテルに語りかけることができるのだ。

肉体は成長し、老いても、記憶は今でも生き生きと生き続けている。人間は死へと向かう有限な存在だからこそ、記憶をその肉体にとどめることができる。唯一悲しむべきことは、はたしてこれから先、僕があれほどの強い刻印をもつ記憶を経験することが、もはやできないのではないかということだ。



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