いつもながら、一つのことに凝り出したらとことんまでという自分のクセで、松本零士原作のオリジナルビデオアニメーション(OVA)『宇宙交響詩(Space Symphony)メーテル〜銀河鉄道999外伝〜』のDVD Vol.1,2,5,6を一気に観た。なぜVol.3とVol.4を飛ばしたかといえば、『宇宙交響詩メーテル』を置いている自宅からいちばん近い(といっても電車で30分はかかる)TSUTAYAで、単にVol.3とVol.4が貸出中だったからということだけだ。
ただ、全6巻のうち、中間の2巻が貸出中というのは運が良かった。この作品のDVDには、最終巻の第6巻のみ1巻に3話、それ以外は1巻に25分1話が2回分、つまり約50分間収録されているのだが、最初の2巻を見れば、この作品と前作の『メーテルレジェンド 交響詩 宿命』とのつながりが分かり、最後の2巻を見れば、「続編」である『銀河鉄道999』とのつながりが分かる。
この作品は副題のとおり『銀河鉄道999』の外伝であり、なぜメーテルが銀河鉄道999に乗って終わりのない旅をするようになったのか、その経緯を描いている。メーテルが星野哲郎と出会う前、母親であるラー・アンドロメダ・プロメシュームの殺害という志を同じくするナスカという少年に出会い、そして悲劇的な別れを経験していたことが、とってつけたようなエピソードとして描かれている。
こうして「ラー・アンドロメダ・プロメシューム」だの「ナスカ」だのといった、劇中の固有名詞を書いているだけでも、こっ恥ずかしくなってくるぐらい、この作品も『銀河鉄道999』の本編と多くの点で矛盾をきたしている。例えばメーテルとエメラルダスの母親であるラー・アンドロメダ・プロメシュームは、いったい何回殺されて、また蘇れば気がすむのか。
そもそも機械化人には永遠の生命が約束されているのだから、「ラー・アンドロメダ・プロメシュームを殺す(倒す)」という言述そのものが自己矛盾ではないのか。また、劇中で機械化人が何体も「死ぬ」のだが、機械化人は永遠の生命を手に入れるために機械化人になったのに、こうもかんたんに人間に「殺され」たのではたまったものじゃない、などなど。荒唐無稽な機械化人vs人間のお話は延々と続く。
この作品では機械化人につづいて、最近の科学技術の進歩も取り入れ、メーテルやプロメシュームの「クローン人間」まで登場するが、機械化人と人間の対立が提示する「限りあるからこそ意味のある命」というテーマに何ら新しいテーマを導入していない。
もしこの作品が、やや高めのDVD販売価格の設定からして、かつて『銀河鉄道999』に熱中し、いまや30代になった僕のような中年男性を対象にしているのなら、せめて『新世紀エヴァンゲリオン』ていどに複雑な物語構造を持っているべきだ。キャプテン・ハーロックやクイーン・エメラルダス、トチローを巻き込んだプロメシュームとのドンパチも、勧善懲悪というきわめてシンプルな二項対立を超えておらず、ポストモダン批評の入り込む余地をまったく許していない。きわめて「近代的」な物語である。
女性性と男性性、母性と父性、優しさと勇敢さ、日常と非日常、永遠の冬と春などなど、『銀河鉄道999』は際限ない二項対立の反復から永遠に脱することができない。しかしメーテルに本当に永遠の旅を続けさせたいのなら、その物語はどこかで二項対立の構造を脱しなければならない。メーテルはプロメシュームを倒す同士としての、勇敢な青年を求めるという旅の目的から、どこかで逸脱しなければならない。
そうでない限り、この『外伝』も単なる懐古趣味としてしか観ることができない。もちろんそれはそれで楽しみはある。メーテル役の声優が、回想の声を除いて池田昌子ではなく、雪野五月(これは1000年女王ことラー・アンドロメダ・プロメシュームの地球での名前「雪野弥生」の二番目の娘ということからつけた芸名なのか、それとも無関係なのか)であるにもかかわらず、プロメシュームの方は20年以上の時を超えて、いまだに潘恵子が演じているというのは、往年の『1000年女王』ファンからすれば涙ちょちょ切れるうれしさだし、車掌も依然として肝付兼太である。これで端役の女性が麻上洋子なら文句なしだが、残念ながらオリジナルメンバーは池田昌子、潘恵子、肝付兼太だけのようだ。
音楽はなぜだか葉加瀬太郎、同氏作曲のエンディングテーマを歌うのは上原多加子で、劇場版『銀河鉄道999』のフルオーケストラの重厚感は消え失せている。つまりは大人も満足できる物語世界をこの『外伝』に求めるのが、そもそもの間違いであり、この作品は単に昔をなつかしむためだけにあるということである。