think or die :
1970年代生まれの
人たちのための
エッセー集
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私の中の他人
瀬名秀明『パラサイト・イブ』
1998/01/24

フランスの詩人、ランボーの有名な言葉に、「私はひとりの他者である」というものがある。

私は私であって、他の誰でもない。私は私の意志で自分の生き方を選んでいる、というのが、典型的な近代人の自己意識である。私は私である、ということは自明のことだし、私はだぁれ?みたいなことを考えていたのでは日常生活が成立たない。しかし、それはそれとして、じゃあほんとうに私は私なのか?と考えはじめると、いったい私のどこからどこまでが本当に「私」と言えるのか、必ずしも明らかではない。

真実は、私という自己同一性(アイデンティティー)というのは、近代社会がそのシステムを維持するために仮説として生み出した一つのフィクションに過ぎない。いちおうそのような自己同一性を絶対の公理としておかないと、個人の責任能力を前提としている近代社会は成立たない。「私は私じゃない!」ということを主張できるとすれば、殺人犯の責任能力も問えなくなる。

たとえば、中世の西欧に生きる人々にとって、神の存在は、現代の僕らにとって、「私は私である」ということと同じくらい自明のことだった。神の存在を前提しなければ、中世社会のシステムを維持することができなかったからだ。その意味で、神様は社会システムを維持するために生み出された偉大なフィクションであり、近代人の僕らにとっての自己同一性もまた、近代社会システムを維持するためのフィクションである。

20世紀に入って、人々は「私は私である」ということが、自明の真理ではなくフィクションであることにぼちぼち気づきはじめている。それは、精神分析であったり、哲学であったり、社会学であったり、生物学であったり、さまざまな学問分野で起こっている。

子供のころに書いた日記をひさしぶりに読んでみたとき、ほんとうにこれは自分が書いたものなのだろうか?という素朴な感覚がある。恋人への手紙をいくら思いをこめてつづってみても、そこに書かれたものは自分の気持ちとはかけ離れたものだ。

仮にそれが自分の表現能力のつたなさのせいなら、表現すること以外に「私は私である!」と証明する方法が、僕らにあるのか?僕が日常生活のなかで、口にする一言ひとことは、いつかどこかで誰かから聞いた言葉の受け売りでしかない。

いや、僕の考えていること、僕の思想は、まさに僕独自のものだ!と主張するにしても、ほんとうに「独自」かどうかを証明する方法はない。世界中のどこかに僕と全く同じことを考えている人間がいるかいないかを確かめる方法はない。なぜなら、仮にそんな人間を見つけだせたとしても、彼(または彼女)もやはり、言語やイメージなど、どんな表現の手段を使うにしても、自分を完璧に表現しつくすことはできないだろうから。同じか違うかを完全に検証する実験は、永久に結論を先のばしにされる。

などなど...僕らがふだん自明であると信じていることは、意外になんの根拠もなかったりする。それを知ったとき、僕らは自分がひとりの他者であると言っても言い過ぎにならないことを知る。いちばん分からないのは、他人の心ではなく、自分の心だと。

だからこそ、僕らは過去をふりかえって、ときに悔恨の思いに囚われ、ほんとうにあれでよかったのか?と自分自身に問うてみる。まるで他人にでも問いかけるように。「パラサイト・イブ」に登場する人物は、誰もが少なからず自分の過去を悔恨をもってふり返る。もしかすると、違う自分でもあったのではないか?

それが、瀬名秀明のこの作品を、「リング」のような純粋なエンターテインメント小説と一線を画す作品にしている理由の一つである。たしかに登場人物の回想のかたちで語られる過去は、ときに赤面したくなるほどナイーブだ。しかし、作者は登場人物の過去が物語に必要なものであることを自覚して筆を進めている。「リング」の事件は、登場人物にとって単なる降ってわいた災難だったが、「パラサイト・イブ」の事件は、すべての人物のはるか遠い過去に刻み込まれている。たんなるコードとしてではなく、生々しい個人の記憶として。

時間的な厚みをもった自我というフィクションを描くために、作者は文体をも利用しなければならなかった。「リング」の鈴木光司は合理性を信頼するあまり、全編を理性的でありきたりの(いわば「近代的な」)文体で通しているが、「パラサイト・イブ」の作者は、文体をも「崩壊」せざるをえなかった(麻理子とイブが出逢うシーンなど)。

この小説を読み進めながら、僕は「GHOST IN THE SHELL」という映画のことを思い出した。あの映画は、コンピュータ・ウイルスが有性生殖するという着想からなっている。「女性」サイボーグのプログラムが、「人形遣い」と呼ばれる「男性」のコンピュータ・ウイルスと融合する瞬間、その間に交わされる言葉は官能的でさえあったように記憶している。

この小説を読んで驚くのは、雌のミトコンドリアが自らの目的を達成していくにつれて高まっていく官能的な悦びの描写だ。さらにこのイブは両性具有(アンドロジナス)でさえあり、麻理子という少女の子宮に受精卵を送り込むとき明らかに性的な快楽を覚えている。

その悦びはすべてを制御しているかに思えたイブの合理的な意志を凌駕している。実はそこにこそ他者との出逢いの、自我にとっての「つまずき」が隠されているのだ。まるで生殖という営みそのものは、ミトコンドリアでも核DNAでもなく、もっと大きなものの意志に制御されているかのように。

この小説の登場人物(人類?)は、ミトコンドリアという内なる他者に気づかなかったばかりに、そのミトコンドリアによって危うく破滅させられるが、ミトコンドリア自身も同じ過ちを犯したために自滅を招くことになる。

異なる存在が出会った以上、そこに予想外の事件が起こるのはもともと避けられないのではないか?他者との決定的な出逢いは、官能の高まりで幻覚を見させるが、そうしなければ他者と出逢うことさえできない。自己の同一性を危険にさらさなければ、本当の意味で他者と出逢うことはできない。

他者との出逢いは魂をゆさぶって僕らを不安におとしいれるが、そうでなければ他者と出逢うことさえできない。だからあのサイボーグは危険を冒して「ダイブ」しなければならなかったのだ。しかし、イブは危険を知らずに人間と交接せざるをえなかった。

官能のうちの忘我は、まさに他者との出逢いが、自己が自己を喪失する危険を冒す「賭け」であることの証拠になっている。その意味でも、この小説は単なるホラー小説や、エンターテインメント小説とは一線を画す作品になっている。