think or die :
1970年代生まれの
人たちのための
エッセー集
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エヴァ劇場版の映像美学
沈黙としてのアニメーション
1997/07/20

「新世紀エヴァンゲリオン劇場版・シト新生」でもっとも印象に残るシーンは「DEATH」編のエレベーターのシーンだ。

シンクロ率が思わしくなく苛立っている惣流アスカ・ラングレーに、綾波レイがエヴァに心を開けと告げるシーン。僕は2度映画館に足を運んだが、2度とも肌が粟立った(もちろん最後の旋回するエヴァに「魂のルフラン」が流れるシーンも)。

おそらくこのシーンをアニメファンが見れば、手抜きにしか見えないだろう。なにしろ2分間も画面が動かないのだ。唯一の動きは中ほどで一度アスカが鼻をすするだけ。

でも僕は今まで、アニメでこれ以上素晴らしいシーンを見た記憶がない。これは手抜きではなく「長回し」なのである。

長回しは画面に異様な緊張感をみなぎらせる。プライドが高く自信家のアスカが初めてつきあたった壁。そしてアスカと対照的な性格のレイ。シンジとのシンクロにしても、常にレイはアスカにとって乗り越え不可能な対象として存在する。

その二人が、エレベーターという密室の中に2人だけで沈黙している。聞こえるのはただ低いエレベーターの機械音だけ。

その沈黙の中に、アスカは自分自身の限界を明らかに見始めている。その乗り越え不可能な壁とは、目の前に存在するレイではなく、自分の心の中にあるのだということに気づき始めている。

あやつり人形のように無感情なレイは、彼女自身が一つの個性なのではなく、徹底した没個性であり、彼女自身が世界を映す鏡なのだ。アスカは彼女に映った自分自身の心を否応なしに覗き込まされる。

そこに映っている乗り越え不可能な壁は、彼女自身が抱える限界だ。

その限界の認識がますます自分を追いつめ、苛立たせているのだとアスカが気づき始めているという事実が、あの長回しの一秒一秒に刻まれているのだ。手前に正面を向いて立っているレイの無表情は、無言のうちにアスカの内面をスクリーン上で二重写しにしている。

じりじりと高まるアスカの苛立ちが、手に取るように伝わってくる。そしてついに沈黙を破るのは、アスカではなくレイなのだ。アスカの心の壁を自分に写し取っているレイもまた、アスカの苛立ちが手に取るように分かっている。

これだけの内面描写がアニメに可能であるとすれば、長回ししかないではないか?

仮にあのシーンで声優がアスカの独白を延々しゃべったとしたら、ひどく味気ないシーンになっただろう。仮にレイとアスカのカットバックだったとしたら、2人の間に敵対心しか見えなくなるだろう。仮にあのシーンが30秒しかなかったら、レイは単なるおせっかい女になるだろう。

あの2分間の沈黙は、アスカの苛立ちを包み込むレイの優しさ・包容力、つまり物語を通じて暗示されているレイの母性(レイはユイのコピーである)を、見事なまでに表現しきっている。

あのシーンが退屈だという観客は、表現しないこともまた一つの表現であることに思いも及ばないのだ。沈黙も言葉である。静止も一つの動きである。

僕が12歳で初めて相米慎二監督の「セーラー服と機関銃」を見たとき、それは単なるアイドル映画(薬師丸ひろ子主演)でしかなかったが、大学時代2度目に見たとき、僕は度肝を抜かれた。

1シーン1カットの超長回し大会なのだ!!しかもほとんどが引きの絵である。こんなすさまじいスタイリスティックな映画を、12歳の僕は単なるアイドル映画としか見なかった。その後、小津安次郎やアンドレイ・タルコフスキーの体験があって初めて、「セーラー服と機関銃」のスタイルの大胆さに驚くことが出来るのである。

劇場版エヴァのあの長回しの緊張感も、アニメしか見たことのない観客には決して伝わらないのではないか。ろうそくの炎を消えないままに運び切ろうとする主人公の絶望的な試みを、延々映し出したタルコフスキーの「ノスタルジア」のあのシーン。アニメーションで長回しの効果をこれほどまでに見事に利用しえたのは、エヴァが初めてではないか?

というわけで、アニメファンのみなさん、アニメばっかり見ているとエヴァの本当の素晴らしさが理解できないっすよ。いわゆる巨匠と言われる監督の映画はちゃんとチェックしておこうね。