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残酷な他者のテーゼ
( 19970720 )

Japanese/English

エヴァンゲリオンは「他者とは何か(誰か)」という問題を扱った、初めてのアニメーションであると思われる。

自己とは何かを問う物語はこれまでにも多く見られた。そうした自己探求型アニメーションの典型は、主人公がさまざまな困難を乗り越えてついに一人前に成長していくというものである。

そうした成長の過程で主人公が出会う他者とは、主人公のその時点でのアンチテーゼの役割を果たし、より高度な総合へと向かう主人公の道行きの媒介をなす他者である。

すべては主人公の心身のある種の「完成」という予定調和的な結末に向かって収斂していく。

そのような自己探求型のアニメが受容者たちに期待していたのは、アニメファンが物語の中の主人公に勇気づけられて、みずから弁証法的な「現実」に立ち向かうことではなかったか。

しかし、現実というものは、その場その場での主体にとってのアンチテーゼとなる事象を、物語的に分かりやすくまさに「アンチテーゼ」たるものとして提示してくれるほどご都合主義的ではない。他者が「これが他者だ、これがあなたにとってのアンチテーゼだ」とみずから宣言しながら現れるような世界は、しょせん現実ではない。

むしろわたしたちが、ある事象が自分にとって成長のきっかけとなるような他者であると気づくのは、つねに遅れてのことである。あのときのあの事件はこういう意味だったのではないか、あのときのあの人はこういうことが言いたかったのではないか。そのような言葉を、わたしたちはつねに苦い悔恨の念とともにつぶやくのである。

クリエーターの善意によって量産されてきた、そのような自己探求型アニメは、皮肉なことにわたしたちの現実がいかにそのようなわかりやすい弁証法から程遠いかを思い知らせてくれるだけだった。

結果として期待をはぐらかされ続けたアニメファンは、次々と自己探求型アニメに虚しい希望を託し、ますますアニメの泥沼に足を踏み入れていくはめになった。

ではなにが本当の問題だったのか。それは、「どれが(だれが)他者なのか?」という問いである。そしてこの問いは必然的に次の問いを生み出す。「どれが(だれが)自己なのか?」

「自立」という究極の目標に執着する自己探求型のアニメは、「では自立するのはだれなのか?」「自己とはだれなのか?」という、もっとも重要な問題を問わないまま予定調和的な結末を量産し続けてきた。しかし「現実」を生きる私たちにとってもっとも切実な問題は、「自己とはだれか?他者とはだれか?」という問いかけだった。

エヴァンゲリオンというアニメはこのもっとも重要な問題に、ひじょうに的確な問いかけをしているのではないか。

これまで自己探求型アニメが、自己の成長の契機である他者を、自分の「外部」に求めてきたのに対して、エヴァンゲリオンは他者を自己の「内部」に探し求めている。この差異は決定的である。

わたしたちにとってもっとも縁遠いもの、もっとも不可解なものは、ほかならぬこのわたし自身なのではないか?というわけである。他者性の契機を自己自身の内部に見いだしたこと、この点でエヴァンゲリオンはこれまでのあらゆるアニメと一線を画す思想性と、それにもまして斬新な物語性を提示しえている。

宿命のライバルと火花を散らし合う中で、一人前の人間として成長できるような幸福な時代は過ぎ去った。それは団塊の世代が高度成長期に抱いたはかない幻想である。1970年以降に生まれ育ったわたしたちは、もはやそのような「だれが他者であるかが明確な時代」に生きているのではない。

資本主義対社会主義という体制の対立、戦前派と戦後派という世代対立、保守と革新政治的対立などなど、明確な対立の構図の中に、自己を位置づけることができた団塊の世代以前とは、わたしたちは完全に異なった現実を生きている。

ほんとうの敵はだれなのか?(使徒なのか?それとも人間自身か?)自己とはだれか?(レイの「自己」を明確に規定することができるだろうか?単なるユイのコピーとも言い切れない。レイ自身の自己のようなものが十分に提示されている。レイに限らず、わたしたちは不明確な自己の境界線を手探りで生きているのではないか)

まず自己という境界線は自明であり、他者との葛藤から始まる。これは、わたしたちの物語ではない。むしろ、自己が他者ともつれあいながらどこまでも弁証法的な解決を引き伸ばしていく、それこそがエヴァンゲリオンの物語世界であり、まさにエヴァンゲリオンを受容している現代のわたしたちの物語なのである。

この夏、劇場版の第2弾によって一応の結末を迎えると言われているエヴァンゲリオンは、果たしてどのような結末を提示するのか。仮にすぐれてキリスト教的な終末論にならった結末を迎えるとすれば、やはりエヴァンゲリオンでさえ自己と他者についての問いを無限に引き伸ばすことに失敗したと言わざるを得ない。

逆に言えば、エヴァンゲリオンが自分自身を単なる物語であると認めるためには、自己と他者の明快な解決が求められているのかもしれない(つまり、ネルフが勝つか。戦自が勝つかという政治的解決)。

明快な結末が与えられた場合の、エヴァンゲリオンの釈明は、「自分は単なる物語なのだ。現実とは違う。だからこうして、はっきりとした解決をもって結末を迎えるのだ」というものになるだろう。

たとえこの夏のエヴァンゲリオンが、そのような物語としての大団円を迎えるとしても、そのためにエヴァンゲリオンそのものが無意味になってしまうことはないだろう。なぜならエヴァンゲリオンはわたしたちに「無批判に自己という存在を前提してしまうことは危険であり、無意味である」という、非常に残酷なテーゼを提示してくれているからである。

なぜ「残酷」なのか。それは、そのような問いかけが、わたしたちを一種の虚無の空間に投げ出してしまうからである。その後に来るものは何か?再び自己探求型のアニメへと回帰し、再現なく大団円を求め続ける泥沼に溺れていくか、それとも、なんら「解決」のない現実のただなかで、呆然と立ち尽くすか。

いずれにせよ、「男は男である」「女は女である」「わたしはわたしである」などといった自己同一性をいとも簡単に信じ込んでしまう団塊世代のことを構う必要はない。彼らはエヴァンゲリオンさえも「おたく文化」の一変奏に還元するだろう。

しかしわたしたち1970年代以降に生きているものは、エヴァンゲリオンとこれまでの自己探求型のアニメとの差異(違い)をはっきりと知っている。何かにつけ単純な対立の構図や、「物語」というものに執着したがる彼らに構う必要はない。

わたしたちは彼らよりももっと困難な問題に取り組む「特権」を与えられているのだから。


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