上野千鶴子の近刊『ナショナリズムとジェンダー』(青土社)を読んだ。
この本は、国民国家という概念を鍵に、これまでフェミニズムが陥らざるを得なかった論理的なディレンマを解きほぐし、フェミニズムに新たな地平を開こうとする野心的な論文集である。
周知のように、フェミニズムは性差を否定するか強調するかの2つの主張の間で絶えず引き裂かれてきた。第?部「国民国家とジェンダー」で上野氏は、女性の戦争参加における「参加型」(文字どおり前線への参加)と「分離型」(いわゆる「銃後の守り」)という類型分析や、有名な与謝野晶子と平塚らいてうの母性論争を例にとって、そのいずれもが矛盾に突き当たらざるをえなかった経緯を明解に示している。
フェミニズムが女性が男並みであることを要求したとしても、永遠に「二流市民」としてのレッテルから逃れられず、逆に女性性を強調すれば、それは社会の側から女性が市民ではないことの追認と見なされる。このディレンマを、上野氏は自らのマルクス主義フェミニズムに対する反省として、「国民国家」の概念を導入することで回避しようとしている。
マルクス主義フェミニズムにおいては、公的領域(市場)の外部としての私的領域(家庭)という2つの概念を軸に、前者が実は後者の存在を前提にしてはじめて成立するものであることを明らかにする(市場における賃金労働は、家庭における無償の家事労働による再生産なしに成立しない、等)。しかし、公的領域にはもう一つの外部があったと上野氏は言う。それが「国民国家」である。
女性を「国民化」しようとする試みが、もっともラディカルに表現されるのが、女性の戦争参加という場面であるが、そこにおいて示される矛盾、
「「分離型」は女性を女性領域に閉じ込めるが、参加型は女性にみずからの女性性を否定させる。しかも参加型に徹してさえ、女性は「二流の戦闘力」として扱われる」(p.89-90)
は、「国民」と「女性」という2つの概念が、もともと相容れないものであることを告げ知らせている。上野氏は「国民国家」という概念そのものが、女性を「女性」としてカテゴライズし、排除することではじめて成立したものであると指摘する。
つまり「女性」が近代国民国家の産物である限り、近代国民国家の内部で「男性」と「女性」の平等を実現することも、女性の差異を強調することも頓挫せざるを得ない。必要なのは「女性」という概念そのものの解体である。
第?部「「従軍慰安婦問題」をめぐって」では、「従軍慰安婦問題」に関するさまざまなパラダイムを列挙することで、「誰のための歴史か?」という本質的な問いを問うている。歴史には一度書かれればそれで決定版、という「正史」など存在しない。歴史は現在による絶えざる過去の再審の過程そのものである。
その意味で、客観性を標榜する実証主義的な歴史学も、資料選択の恣意性や、資料そのものが破棄・隠蔽される可能性に無頓着であったり、逆にそれを利用したりするという意味で、決して客観的ではない。むしろどこにも「客観的な史実」など存在しない。
見かけ上の客観性に依拠する実証主義へのアンチテーゼとして、オーラルヒストリーがあり、「元慰安婦」たちの「語り」がある。「元慰安婦」たちの「告白」によってはじめて、それまで無価値とされてきた資料が再評価されるというパラダイムの転換が起こる。これは、資料さえも再審によって初めて資料たりうることの証拠である。
では上野氏はどこへ行くのか?「女性」という概念の解体とは何を意味するのか?おそらくそれはフェミニズムの方法論そのものにかかわってくるのだろうと、僕は考えている。
「男性」という概念を持ち出して、「男性並み」を主張することにも限界がある。もちろん「市民」であることの要求も、あるところまで来ると矛盾に突き当たる。「女性性」そのものを擁護することも危険である。これらはすべて、「男性」「女性」「市民」といった概念装置が、当の批判の対象の産物であることからくるディレンマである。
だとすれば、フェミニズムはそうした概念の解体の過程そのもの、使いふるされた概念装置から、概念の多様性への移り行き、不断の歴史の再審という活動そのものであることが分かってくる。
ということは、「男性」にとっても、「これがフェミニズムだ」という安住の地はない。近代国民国家の仕掛けたトラップは、あらゆるところで口を開けて「男性」を待ち構えている。
「「女性の国民化」−−−国民国家に「女性」として「参加」することは、それが分離型であれ参加型であれ、「女性≠市民」という背理を背負ったまま、国民国家と命運をともにすることにほかならない。そしてその事情は「男性=市民」にとってはもっと逃れがたい罠である」(p.95)
「男性」は「国民国家」や「唯一の正史」といった固定的な概念装置に矛盾なく回収されてしまうために、かえってその罠の深みにはまってしまうとも言えるだろう。であれば、「男性」はなおさら意図的に絶えずそうした概念装置に対する再審を試みなければならない。
「「女性」の解体を。そしてそれは「男性」の解体と同じことでもある」(p.95)と書くこの書物は、「男性」にとって、不断の問い返しという試みに重要な手がかりを与えてくれる刺激的な書物であることは間違いない。