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汚された希望
( 19970720 )

Japanese/English

観客のエヴァ完結篇に対する期待が、エヴァの物語世界への耽溺だとすれば、その期待は完全に裏切られる。その失望こそ庵野監督が観客に期待したものだった。

物語の細部や、エヴァの豊富な用語集は置くとして、その物語の底に流れる思想は、やはり自己と他者の関係をめぐるものだった、と言ってかまわないと思う。

このホームページで、春の劇場版「DEATH&REBIRTH」について、エヴァは「他者性」のテーマに正面から取り組んだ作品だと書いた。アニメというメディアが、閉鎖的なイメージを構築するのにうってつけの手段であるだけに、アニメで他者性を表現するのは想像以上に困難な作業に違いない。

実は僕自身、今回の完結篇に、エヴァの物語世界としての閉鎖性をどこかで望んでいた気がする。

つまり、小学生の頃の僕が、メーテルの切り抜きをお手製のロケットに入れて肌身放さず持ち歩いていたように、綾波レイのひざまくらでやすらぐ夢を見続けられることを期待していた気がする。綾波レイを「永遠の女性」として思い続けられるような、物語としての強烈な吸引力を求めていた気がする。

その期待は見事に裏切られている。

しかしそれはエヴァ完結篇の物語が、観るに耐えないものだったという意味ではない。エヴァの物語は、多くのアニメがそうであるような、閉じた世界の強度を持つ物語ではなく、開かれた物語である。

なおかつ、矛盾した言い方になるが、閉じた物語は、自己と他者の間に無条件の開放を前提しているのに対して、開いた物語は、乗り越え不可能な「壁」を前提している。

ただし、アニメとしてのエヴァは、自己と他者の間にある絶対的な「壁」という終局にストレートにたどりつくわけには行かない。

アニメそのものが、自己完結したイメージの世界、自己が無条件に自己である世界を前提としてきた経緯のために、一度その自閉的世界をアンチテーゼとして措定する必要があった。

そのために庵野監督はひじょうに大がかりな仕掛けを、物語の中にあらかじめ仕組んでおいたということのになるだろう。もちろん、「人類補完計画」のことである。

エヴァの物語を、その外部から眺めたとき、「人類補完計画」に相当するのが、まさに僕が抱いていたような「甘い期待」に他ならない。つまり、エヴァという物語世界への耽溺である。

しかし、少し考えてみれば分かるように、エヴァを観る前から観客が抱いていた、物語への耽溺という期待を満たすには、物語など必要ないのだ。

「人類補完計画」がなんであれ、「サードインパクト」の意味するものがなんであれ、そのような細部にかかわらず、物語世界の人類に幸福な未来がおとずれ、シンジがレイと幸福な学園生活でも送りさえすれば、あるいはそんな取って付けたような結末がなくても、観客は胸のすくような気持ちで劇場を後にすることができただろう。

エヴァにとって物語が必要だったのは、物語を否定するためだ。

物語の閉鎖的な性格を否定するためにこそ、一見閉じた結末へと向かうかに見える物語が必要だったのだ。

今回の完結篇では、物語への耽溺という観客の期待は、ゲンドウの近親相姦願望と、シンジの覚醒(?)という形で、物語の内部に二重に織り込まれている。

はじめは、リリスを前にしてレイがゲンドウを「裏切る」瞬間。それまで自閉的な物語世界を期待していた観客の期待も裏切られる。

ゲンドウのもくろみが裏切られることは、観客も薄々気づいていたかもしれない。物語はもともと、観客にシンジへの感情移入を要求していたからだ。レイがシンジの期待(=観客の期待)どおりに、シンジの元へ飛翔するのは、そのような物語の仕掛けの上でである。

レイがシンジの母親のコピーであることを思い出せば、ここにも近親相姦の主題が繰り返されている。が、それが性的な交わりではなく、母胎への回帰であることを納得させるための媒介として、カヲルが現れる(レイはカヲルとともにゲンドウを裏切ったことになる)。

ここに、二重に織り込まれた観客の期待が、はじめて実現するかに見える。シンジの母胎回帰の期待が満たされたとき、物語は仮そめのジンテーゼを迎えるのだ。

自己と他者の統合。ゲンドウが期待した父子相姦の形ではなく、母胎回帰としての「一なるもの」への統合としての「サードインパクト」である。

これが物語の終局であるなら、観客もシンジと同じように、アニメの自閉的世界を象徴する「白い巨人」に飲み込まれたまま、夢の中に安らかな逃避の場を見いだすことができただろう。

しかし、ここで物語はアニメそのものを超脱する。スクリーンに映し出されるのは、観客自身であり、現実の(?)第3東京市であり、現実の世界でのエヴァの姿(受容)である。アニメは解体され、瞬間的なイメージのフラッシュに還元される。

エヴァ完結篇の最大の問題は、この転回がなぜ起こったのかということだ。

シンジが母胎の中の絶対的な「一者」の状態から抜け出す手がかりを、どこから得たのか?シンジの命がけの飛躍の原動力はいったい何なのか?

もちろんそれは、母胎としての綾波レイ(アニメ)でもなく、媒介(メディア)としてのカヲルでもない。地球上の人類は、一人を残して自己と他者の仮そめの一体化にのみこまれてしまっている。

アスカ一人を残して!?

アスカはシンジにとっての躓きの石だったのだ。乗り越え不可能な他者性の象徴がアスカだった!?

ここで観客は納得するべきなのだろうか?確かにアスカはシンジのことをバカシンジ、バカシンジって言ってたっけ。そいつと最終的に仲良くなるんなら、なるほど絶対的な他者性の証明になってるかも。

聖書の物語のとおり、人類が最初の男と最初の女から生まれたと仮定して、その男と女は仲が良かったんだろうか?絵に書いたような幸福な生活を送っていたのだろうか?そりゃぁだれだってそう思いたいに違いない。すべて人類は男性性と女性性の「幸福な結婚」から生まれたのだ、と。

しかし、そんなものは単なる幻想にすぎないのだとしたら。人類の起源は決して幸福なものではなかった。他者の他者性は乗り越え難く、ただただ絶望しかありえないと思うより他ない。そんな二人から人類は始まったのかもしれない。

それでもそれが「終わり」ではなく、「始まり」たりえたのはいったいどうしてだろうか?僕らが毎日のように繰り返す他者との出会いが、いかに絶望的なものであれ、それを繰り返すことができているのはなぜか?

それこそ、「甘い期待」のおかげに他ならない。

あわよくば他者と完全に一体化できるかもしれない、という「甘い期待」。ひょっとすると、自閉的な物語世界に耽溺できるかもしれないという「甘い期待」。

その期待ははじめから裏切られるためだけに存在する、そんなことは分かっていたのだ。それでもその期待は、最悪の状況にほうり出された者にとっての最後の希望の光になるのかもしれない。

つまり、希望の光そのものが、はじめから汚されているのだ。希望の光である綾波レイは無垢の光ではなく、裏切られた期待だった。

エヴァというアニメが、どこまでいってもご都合主義的な、自閉的な物語世界を描くことしかできなかったとしても、あるいは、自閉的世界をみずから否定することで、甘い期待は初めから裏切られるためだけに存在したのだということを示してみせるにしても、それでもアニメは、観客が(そして監督自身が)現実の世界に歩み出すための希望の光になり得るかもしれない。

それがアニメ作家としての庵野監督自身の、裏切られるべき「甘い期待」であると同時に、アニメを創作し続ける「希望の光」でもある。乗り越え不可能な絶望の壁でもあり、それでも乗り越えようと思わせる希望の力でもある。

自己にとって、希望であると同時に、絶望でもある他者性。それがエヴァがレイとアスカによって描き出したかった真相なのではないか。


ところが、ここまで書き進めても、僕には残念ながらレイやカヲルの笑顔を希望の光と考える気には毛頭なれない。

たとえエヴァの世界に幕を引いたアスカの最後の台詞が、あんなものであったにせよ、僕にとっての現実はそれ以上に困難なものであるからだ。

しかも、サードインパクトの後に残された二人は、まだ14歳ではないか!!14歳は純粋な可能性そのものと言ってもいい年齢である。それに対して、自分はもう取り返しのつかない年齢に達している。

現実という概念そのものに、庵野監督他、エヴァを創作する側と、受容者であるわれわれの側に、乗り越え不可能な絶望の壁が立ちはだかっている気がしてならない。レイやカヲルに、私たちは希望なのよと言われたところで、そんなものは何の助けにもならないんだ。

無用ななぐさめはよしてくれ!現実はもっと困難だし、エヴァ完結篇が提供してくれたような希望の光さえどこにもない!!

そんな絶望的な状況から、もう一度始めなければならないと気づいたことが、庵野監督のメタメッセージだったとすれば、庵野監督のエヴァは完全に成功しているということを、苦笑いしながら認めなければならない。

つまり、エヴァという一つのアニメと、われわれ観客の間にも、乗り越えがたい他者性の「壁」、A.T.フィールドが展開されていたのだと。


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