think or die :
1970年代生まれの
人たちのための
エッセー集
>映画/音楽/書物を考える
>同月のブログ「愛と苦悩の日記」へ
ゴールデン・デーモン
尾崎紅葉の複眼的合理主義
2002/01/20

尾崎紅葉『金色夜叉』(新潮文庫)を読み終えた。直接の動機は明治時代に一大流行となった風俗小説である小杉天外『魔風恋風』の直前まで、同じ読売新聞に連載されていたのが『金色夜叉』というからだ。『魔風恋風』は人物の服装と涙を流す姿の描写と会話だけから成り立っている驚くべき小説(これは皮肉)だが、『金色夜叉』の後釜として読売新聞が白羽の矢を立てたのが小杉天外というくらいだから『金色夜叉』もどれだけひどい小説だろうかと、その題名は日本人で知らない人はおらず、「あたみぃ〜の、かいがぁ〜ん、さんぽぉ〜するぅ〜」なんて鼻唄もできない人はないほどだろう小説が実際はどんなものかという興味から手にとった次第で。

孫引きになるが、かの競馬評論家にしてポストモダン文学の旗手である高橋源一郎大センセイは著書『文学王』のなかで『金色夜叉』について次のように書かれているとか。

「『金色夜叉』を読んで驚いた。面白いのである。ほんと。読んだことがないけど名前はだれでも知っている日本文学を探ってきたわたしであるが、やはりその王者は『金色夜叉』ではないか。そう思って読みはじめたのだが、正直いってぜんぜん期待していなかったのだ。それがまあ、なんと、紅葉!最高!っていうぐらい面白いのよ。やっぱり食わず嫌いはいけません。」

たしかに小杉天外『魔風恋風』の僕にとっての面白さは、ふだん少年漫画など毛嫌いして読まない僕がたまたま『少年マガジン』を手にとって読んでみたときの嘲笑混じり、鼻笑いの面白さかもしれないが、『金色夜叉』の面白さはそれとは性格の違うものだった。

この作品を読んでもみたことがない人は、大方、熱海の海岸での「今月今夜のこの月を...」あたりがクライマックスなのだろうと勘違いしているかもしれないが、熱海の海岸での貫一、お宮の決別の場面は新潮文庫で64ページから始まっている。小説の全体は「続金色夜叉」「続続金色夜叉」「新続金色夜叉」(こんな続編があったことさえ僕は知らなかったのだが)も含めて484ページまで続いている。つまり熱海の海岸の場面は物語全体の単なる発端、起承転結でいえば起の部分に過ぎない。

また、この物語は宮が銀行家の子息である富山の財産に目が眩んで、貫一を捨てて嫁ぐという裏切りから始まっているため、一方的な物質主義批判の小説であると思われているかもしれない。しかし宮の裏切りから貫一は高利貸の手代となり、その偽悪に苦しみながらも、紅葉の病気によって中断されたこの小説の最後に至るまで高利貸であることを止めていない。塩原で心中しかけている男と女の命を救ってもなおそうなのである。

つまりこの小説はほとんど始めから最後まで高利貸である貫一を主人公にしているのだから、紅葉は物質主義に対する浪漫主義、「お金より心」といった最近のテレビドラマにありがちな単純素朴な主題設定だけで貫一を描くことができなかったはずなのだ。紅葉の高利貸という職業にかんする妙に合理主義的な考え方が徹底していることに感心させられる。

たとえば貫一が寄宿した高利貸である鰐淵が実の息子から高利貸という職業の不正を非難される場面(『金色夜叉』後編・第一章)から、息子に対して高利貸という商売の正当性を言って聞かせる台詞を引用する(勝手ながら漢字仮名づかいを改めさせて頂く)。

「お前はようこの家業を不正じゃの、汚らわしいのと言うけれど、財を儲くるに君子の道を行うてゆく商売がどこにあるか。我々が高利の金を貸す、いかにも高利じゃ、なぜ高利か、ええか、無抵当じゃ、そりゃ。借りる方に無抵当という便利を与えるから、その便利に対する報酬として利が高いのじゃろう。それで我々は決して利の高い金を安いといつわって貸しはせんぞ。無抵当で貸すから利が高い、それを承知でみな借りるんじゃ。それが何で不正か、何で汚らわしいか。利が高うて不正と思うなら、始めから借らんがええ、そんな高利を借りても急をすくわにゃおかれんくらいの困難がさまざまにある今の社会じゃ、高利貸を不正と謂うなら、その不正の高利貸を作った社会が不正なんじゃ。必要の上から借りる者があるで、貸す者がある。なんぼ貸しとうても借りる者がなけりゃ、我々の家業は成り立ちはせん。その必要を見込んで仕事をするがすなわち営業の魂なんじゃ」(205ページ)

高利貸の鰐淵という登場人物にこのような台詞を言わせることができる紅葉に合理主義的な思想がかなり徹底していることは容易に想像できる。二重否定を多用する漢文脈の地の文や、登場人物の目線に徹してわざと他の登場人物の名前を明かすことを先延ばしにする懲りすぎといえば懲りすぎた演出法などは、この小説がきわめて冷徹で合理的な思想の裏付けから書かれていることを示している。

単純な物質主義批判に終わらないその説得性が広く大衆の支持を集めた理由だとすれば、むしろ私小説に収束していった自然主義が特定個人の主観を信頼して小説を編み出していったのは『金色夜叉』のような作品に対する「退化」ではないかとさえ思えるほどだ。

もちろん『金色夜叉』にも必要以上に細かい服装の描写や、宮が偶然街角で貫一の学生時代の親友と出くわすなどのご都合主義、とにかく登場人物が四六時中泣いているなどなど、滑稽に思える個所はいくらでもあるが、登場人物のそれぞれの主観を徹底的に弁明しようとする紅葉の複眼的な合理主義は、物語作者としての誠意とそれゆえの苦悩が痛いほど伝わってくる。

もし『金色夜叉』を貫一、お宮のメロドラマだと思って読まない人があるとすれば、ぜひご一読をおすすめする。唯一この小説を読んで「だまされた」と思う点があるとすれば、中途半端なところで絶筆されてしまっている点だけだろうか(こんなにほめていいのか?)。