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占いせんべいのサスペンス
( 20000319 )

Japanese/English

(注:このエッセーはロバート・アルトマン監督『クッキー・フォーチュン』のストーリーに触れていますので、必ずこの映画をご覧になってからお読みください)

淀川長治は生前、キアロスタミ監督の『桜桃の味』について、この映画は「サスペンス」だ、そしてこの監督は「サスペンス」の見せ方を心得ている、と語っていた。自殺志願の男が自殺の手助けをしてくれる人間をさがしまわる。それだけの映画を「サスペンス」だと言い切るのは、淀川長治が「サスペンス」が何であるかを本当に知っていたからだろう。

では映画における「サスペンス」とは何か?「サスペンス」を表現するのに猟奇殺人が起こる必要はまったくない。もちろんSFXも必要ない。特殊メイクも必要ない。凝ったライティングも、派手なガンファイトも必要ない。話はもっと単純だ。suspenseは動詞suspendの名詞形。suspendとは「宙づり」のこと。要は「次にどうなるんだろう、何が起こるんだろう...」という緊張感が持続すれば、それだけで立派なサスペンスなのだ。

たとえは『桜桃の味』なら、いったいこの主人公は無事に(?)自殺できるのだろうか、手助けをしてくれる人間が見つかるのだろうかと、観客をハラハラさせる。同じキアロスタミ監督の『風が吹くまま』なら、いったいこの主人公は無事に葬式をカメラにおさめることができるのだろうか、老婆はいったいいつ病死するのだろうかと、気が気でなくなる。前者は「死にたくても死ねない」というジレンマ、後者は「死なせたくても殺せない」というジレンマに陥っているという共通の構造がある。

「サスペンス」というのはけっこう単純なことなのだ。キアロスタミ監督の上記2作品を見ても分かるように、それほど凝ったストーリーが必要なわけでもない。ところがこれを映画においてちゃんとした「サスペンス」として見せるのは、至難の業である。なぜなら、下手な監督は多くを語りすぎるからだ。

たとえば『桜桃の味』での大胆な省略法や、『風が吹くまま』で肝心の老婆が一度も画面に登場しないことにお気づきになっただろうか?あえて語らないこと。あえて見せないこと。この抑制の効いた演出こそ上質な「サスペンス」映画に必要不可欠なものだ。

その意味ではロバート・アルトマンも映画における「サスペンス」を十分に理解している監督である。おそらくそれを分かっていない観客は『クッキー・フォーチュン』でクッキーという老婆が自殺するまでの30分近くにわたる導入部分を、単に退屈な日常生活の描写としか観ないだろう。

しかし冒頭の魚釣りの会話がすでに、白人保安官と黒人ウィリスとの間の強い友情を示しているし、復活祭の舞台練習をする素人俳優が、『サロメ』の人種差別的なセリフに「昔も今も同じだな」と傍白する部分も、人種がひとつの鍵になっていることを暗示している。こうしたことから「何か起こるな」と観客は心配し始めるべきなのだ。

そしてその心配は、ウィリスがクッキーの目の前で銃の掃除をしたり、銃の保管棚の扉がこわれて勝手に開いたり、銃の存在が不自然に強調されるに至っていよいよ確信に近くなる。そして事件は起こる。

こんな風に書き進めるといかにも深刻な映画のようだが、もちろんブラック・ユーモアの名手アルトマン監督だけあって『クッキー・フォーチュン』はミシシッピーの田舎町で起こった小事件の真相が暴かれる過程をとぼけたタッチで描く。

この映画で気づくのは小道具の描き方がとてもていねいであるということだ。銃やワイルド・ターキーの小瓶、イースター・エッグ、立入禁止のテープ、カットグラス、Cの字のネックレスなどをさりげなく観客の印象に残るように見せながら、脚本のおもしろみをしっかりと描き出している。この映画に関してはクレーンやトラックを駆使した長回しなど凝った技巧は見られないが、巨匠と呼ばれるにふさわしい手堅い演出が光っている。

また、クッキーの遺言状がクッキー・ポットに隠されていたり、「ターキー」が復活祭の七面鳥やバーボンの名前とかけられていたり、実際にはエマの母親ではないことが最後の最後に分かるコーラが現にコーラ好きだったり、そういうとっても下らないダジャレがふんだんに盛り込まれていることもこの映画の雰囲気づくりに一役買っている。

これは本作が初の映画脚本になるアン・ラップの才能だ。もちろんタイトルの『クッキー・フォーチュン(Cookie's Fortune)』についても、読んで字のごとく「クッキーお婆さんの財産」でもあるけれど、「占いせんべい(fortune cookie)」の裏返しにもなっている。

この映画における言葉の重要性は、冒頭近く、ウィリーが銃の掃除をしながらクッキーがクロスワードを解くのに「HELIOS」という単語を教えるシーンや、留置場の中で登場人物がスクラブルをして遊ぶシーンでも強調されている。特に「HELIOS」の説明に出てくる「黄金の翼」は大事で、クッキーが自殺についてファンタジーをふくらませるのに一役買っている。

復活祭の劇の演目が『サロメ』であったり、この映画の脚本にギリシアへのリファレンスが多いこと、そして自殺を隠そうとしてかえってウィリスに無実の罪を着せるカミールが敬虔で頑固なキリスト教徒であるという皮肉も注目に値する。

ついでに言えば、ミシシッピー州で黒人が殺人容疑で捕まって、その嫌疑が晴らされていくというストーリーから、往年の名作『夜の大捜査線(In the Heat of the Night)』を思い出さない人はいないだろう。もちろんこの映画では、黒人の辣腕警部と、ウィリスのような庶民という、黒人どうしの「階級差」の対比も現代的な問題として導入されてはいるが。

そうしたさまざまな要素が共鳴しながら、一見軽妙ではあるけれど実は考えぬかれた演出によって、すぐれた脚本がていねいに描かれる。これこそ映画の快楽、という作品だ。

ちなみにクレジットでちょっと目を引いた栗田豊通というカメラマン、大島渚の『御法度』でも撮影を担当しているベテランで、同じロバート・アルトマン制作の『アフター・グロウ』(1997年)や、相米慎二監督『お引越し』(1993年)でも撮影を担当している。


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