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1970年代生まれの
人たちのための
エッセー集

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魔法のキャンディー

『セリーヌとジュリーは舟でゆく』

1998/08/29

このホームページの一部の読者にはひじょうに申しわけないが、久しぶりに「映画」を観た。フランス・ヌーベルバーグの巨匠、ジャック・リベット監督の傑作『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(1974年197分)。WOWOWのJ・リベット特集最後の作品である。他の3作品は観逃してしまったが。

『タイタニック』が何時間の映画だったか、そんなことはどうでもよくなる。197分にもおよぶこの映画には、大金をつぎこんだコンピュータ・グラフィックスも、嫉妬に怒り狂う成金の御曹司も、歴史に残る悲劇もない。目を覆いたくなるような惨劇もないし、死にゆく人々の無念の叫びもない。

計算しつくされた人工的なライティングもない。ズームやアップなど、派手なカメラアクションもない。野心に満ちた男も、鳥かごを抜け出したい女もいない。

そこには映画しかないのだ!197分間、一瞬たりとも目が離せない映画だけがあれば十分、僕らがスクリーン(あるいはTVの画面)の前に座るために、それ以外の何が必要だろうか?

この映画は、主人公である二人の女が抑圧された記憶をとりもどす物語である。物語の始まりは、その忌まわしい記憶から逃れ去ろうとするセリーヌに、ジュリーが出会うことから始まる。

「魔術師」と名乗るセリーヌは、失われた自我の姿をジュリーの上に「アメリカ人の金持ちの娘」という形で投影するが、ジュリーの昔の恋人の前でジュリー自身を演じようとして失敗する。そしてジュリーはセリーヌに代わって「魔術師」を演じようとして失敗する。

他者に投影された自分自身の姿をとりもどすことに失敗した二人は、セリーヌがジュリーのために、ジュリーがセリーヌのために語ろうとした偽の物語を捨てて、二人で共有する抑圧された記憶に向かって勇敢に立ち向かっていく。

しかしその忘れられた物語は、二人でいっしょになって思い出してみればなんてバカげた幽霊芝居だっただろう。おたがいの上に自分自身の姿を認め、そこからふりかえって自分の存在を確かめようとしていた二人の女は、いまや観客である僕らと向かい合って自分たちの記憶に入り込んでいく。

こうしてこの映画は、僕らがふつうに映画的な物語として観ることができる世界と、その映画の中でカットバックとして断片的に挿入される想像的な世界の二層に分けられる。この二層をつなぐのが、魔法のキャンディーである(魔法のキャンディーと言っても、手塚治虫の『メルモちゃん』のことではない)。

想像的な世界は何度も繰り返されるうちに、ひとつの物語に編み上げられていき、ありふれた三角関係のソープオペラ兼ミステリーとして滑稽さを帯びてくる。僕らは今の自分自身の起源について、忘れられた物語を深刻なものとして語りたがるけれども、じっさいのところ案外お笑い種だったりする。抑圧された忌まわしい記憶は、反復されることでありふれた物語に切りつめられていく。

そしてついに二人の女はその物語の中で、自分自身の深刻ぶった役割をスタンスをおいて演じることで、想像的な世界そのものを相対化してしまうのだ。二人がその物語の世界から救い出すのは、おそらく彼女たち自身である一人の少女である。

ラスト近く、セリーヌとジュリーは、彼女たちが抑圧された記憶の中から救い出した自分たち自身である(?)少女を舟にのせて静かな水面をすべっていく。ジャン・ルノワールを思い出させるこのシーンで、二人はふたたび自分たちである少女を失うことで、ふつうの意味で僕らが映画ととらえる層へと戻っていく。

最初のシーンではジュリーがセリーヌを追いかけるが、今度はセリーヌがジュリーを追いかける。こうして二人にとっての想像的な世界はふたたび抑圧され、映画が戻ってくる。ふたたび映画が始まる。

こうしてここには映画しかない。映画があれば十分なのだ。



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