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最悪の二番煎じ

アルモドバル『アタメ』

1998/02/27

最近、ペドロ・アルモドバルの『私の秘密の花』と『アタメ』を観たが、この監督は技術的な巧妙さを評価することしかできないのではと思いはじめた。たしかにこの2本ともがよくできたメロドラマであり、『アタメ』の方はサスペンスの要素でテンションをよく維持している。

『私の秘密の花』に『カサブランカ』などハリウッド・クラシックスへの言及がちりばめられていることから推測できるように、アルモドバルはおそらく最良のハリウッド映画から多くの技法を学び、それをスペインの饒舌にうまく持ち込んでいる。しかし、裏を返せば、彼はそれ以上のことを学びはしなかった。

本当にすぐれた映画作家は、なんでもない日常生活の一コマに人生のすべてを描き切ると言われる。アルモドバルは、あまりにハリウッド的技法を洗練させすぎて、何かを描くことに失敗しているのではないか?

もちろん映画が何かを描かねばならないなんていう義務はないが、技法だけで成立しうる映画とは、技法そのものが映画の個性になっているような例外的なもの(ゴダールなど)だけである。アルモドバルの技法はあくまでメロドラマやサスペンスを描くために洗練されたものだ。

そうであるからには、その技法はメロドラマやサスペンスを納得させる技法でなければほとんど意味がない。『アタメ』はその意味で完全な失敗作である。

『アタメ』で描かれるドラマとは、ポルノ女優であるヒロインが自分を数週間にわたって監禁した凶悪犯への憐れみから恋に落ちるというドラマである。ラストシーンは、ヒロインの運転する車の中で、その姉と凶悪犯が、ラジオのポップスを3人して歌い出すところで終っている。

当然ドラマの焦点は、凶悪犯への恨みがいかにして愛に変わるかであり、それを描くことに成功すれば、アルモドバルの技法はハリウッドから離れて彼の手中にあると言うことができるだろう。

しかし、観客は最後まで、一体なぜヒロインは、自分を暴力でねじふせた上に、外部との接触を巧妙に断ち切り、監禁し続けた犯人を愛するようになったのか、分からずじまいである。監督の意図に反して、この映画の見どころは、ヒロインが監禁から逃れようとさまざまな知的な策略を試みるそのサスペンスにある。この点では監督は完全に成功している。

アルモドバルはこの映画で脚本も書いているが、ヒロインが自分を陥れた凶悪犯を愛するという取ってつけたような結末を、いったいなぜ用意したのか?ひょっとすると、彼はハリウッドのメロドラマのハッピーエンドを、あまりにもチープに消化してしまっているのではないか?

同じように、女性が見知らぬ男に監禁され、愛を強要される物語を描いた映画に、あの『ローマの休日』で有名な名匠ウイリアム・ワイラーによる佳作『コレクター』(1965年アメリカ)がある。

こちらは、希望のかけらもない。もちろん監督が原作に忠実だったということもあるが、ワイラーはこの物語に、若い女性を収集する男の異常性と、単なる偶然からその犠牲者となってしまった女性の出口のない絶望を描くことに徹している。

ちなみに、この映画のラストは、犯人が地下室の扉を開け放ったまま外出したすきを狙って、女性が脱出をこころみようとベッドから立ち上がった瞬間、衰弱死するという、まったく救いようのない結末になっている。『アタメ』とはまったく対照的である。

そして、犯人はまた別の女性を求めて自動車で街にくり出す(犯人役のテレンス・スタンプ、被害者役のサマンサ・エッガーは、ともにこの年のカンヌ映画祭演技賞を受賞している)。

思い出してほしい。『ローマの休日』はメロドラマだが、決してハッピーエンドではない。階級の差は歴然として存在し、男はカーテンの奥に消えていったひとときのはかない夢を見たに過ぎない。それを演出するために、ワイラーの技術が存在するのである。

同じように、すべてのハリウッド・メロドラマがハッピーエンドであるというのは、単なる幻想であるが、古き良きハリウッドから洗練された技法を学んだ監督は、そう信じたがっているふしがある。アルモドバルの『アタメ』は、その意味で最悪のハリウッドの二番煎じである。

そしてスピルバーグの『シンドラーのリスト』のような映画もやはり、そうした最悪の二番煎じの系譜のひとつに数えることができるのではないか。つまり、技術的には一見の価値あり。しかし、何を観たかは忘れろ。



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