学生時代、とある理由から絶望の底で生活していたときも、辛うじて希望を失わずに生きつづけられた一つの理由に、歌があった。真っ暗なひとりの部屋でも、静かに歌を口ずさむと、こんなに美しい音楽があるならきっと大丈夫という気持ちになれた。音楽は僕にとって生きる理由の一部をなしていると言っても言い過ぎにならない。
先日、最相葉月著『絶対音感』(小学館)を読んだ。秋葉原にある古書店のワゴンセールで100円で売られていたので、思わず買ってしまった。著者の網羅的な取材力には脱帽だが、複数の取材先から聴き取った結果が複雑に織り合わされている文章の構造は格調高くやや読みにくかった。
しかしこの本から得られた情報については読みにくさを補って余りある。まず僕がはじめて知ったのは、絶対音感は生来の能力ではなく、幼児期の音楽教育によって体得できるものであること。そして絶対音感を学習によって得られる年齢は、いわゆる「バイリンガル」になれる年齢、つまり小学校入学前後までに限られており、それ以降に体得しようとしても非常に難しいということ。
訓練で獲得できる能力であれば、絶対音感のような便利な能力は身に付けておくに越したことはない。そう考えるのが普通だろう。絶対音感はたとえばピアノで毎日同じ音を聴かせ、音名を復唱させることで身に付けさせることができるという。効率的な教授法をノウハウとしてもっている音楽教室もあるらしい。
絶対音感とは音について厳密な認識格子を獲得するということだ。聞こえてきた音のすべてを即座に音名に置き換えることができる。というより、音楽が音名のつながりで聞こえてくるらしい。
英語の聞き取りがまったく出来ない人にとって、英会話がほとんどメロディーにしか聞こえないのと同じように、絶対音感のない僕にとって音楽は単なるメロディにしか聞こえない。英語の聞き取りができれば英会話が単語のつながった文章としてイメージされるように、絶対音感のある人は、音楽を聴くと頭の中に音名のつながりがイメージされるのだという。
しかし本書によれば、絶対音感を持っている当人にすると、音楽が「言葉」として聞こえることには不便もあるという。というのは、歌詞つきの音楽を聴くと、音名の方が先に頭に入ってくるので、よほど集中しなければ歌詞が聞き取れないらしいのだ。絶対音感のない僕には具体的に想像するのが難しい状況だが、たしかにメロディーが「言葉」にしか聞こえないのでは歌詞つきの音楽を気軽に楽しめなくなりそうだ。
有名な音楽家の中には、絶対音感をもつ人もいればそうでない人もいる。いくら英語に堪能でも、問題なのは英語を使って何を伝えるかであるのと同じように、音楽家にとっても絶対音感は便利な道具にすぎず、本当に重要なのは表現力だ。絶対音感を持つ音楽家の多くが、そう言っているらしい。
僕は絶対音感がないと言ったが、正確にはドとラについてだけ絶対音感がある。ラについて絶対音感があるのは、13歳のときから始めたギターで、毎日チューニングするたびに5絃の音を聴いていたからだと思う。ドについては理由はよく分からないが、ピアノで弾いたドミソの和音はいつでも頭の中で響かせることができる。
また、自分でよく歌う歌はほとんどオリジナル・キーを覚えているようだ。たとえば久保田早紀の『異邦人』と言われて頭の中でよみがえるメロディーはオリジナルのキーになっている。歌い出しの音に対する相対的な音の高低でメロディーを覚えているというよりは、メロディー全体を絶対的な音程で覚えているように思える。
まったく正式な音楽教育を受けたことがなく、ピアノが弾けない僕でさえ、この程度なら絶対音感らしきものを持っている。ただこれにはまったく理由がないわけではない。叔父が洋楽をたくさん聞かせてくれるなど、幼時に音楽のシャワーを浴び、それなりに耳が鍛えられていたということがあるだろう。虚しい想像ではあるが、もし幼い頃にピアノを習っていたら、もっと音楽を楽しめたのにと残念に思う。
他にも本書で西洋音階のいくつかのパターンがどのように違うかということも知ることができた。平均律というのは近代工業化社会の生み出した「規格化された音階」であり、モーツァルトは必ずしも平均律で作曲したり演奏していたわけではなかったようだ。
また、基準となるラ音の周波数は国によって微妙に違うらしい。440Hzだったり、442Hzだったり、445Hzだったり。しかも時代を下るにつれ周波数は少しずつ高くなっているということだ。高めの周波数の方が音が華やかに響くことが主な理由らしい。
そのため絶対音感を持つ演奏者は、海外のオーケストラと競演するときに、その基準周波数に自分の耳を合わせる苦労があるのだという。絶対音感を持つ人は2ヘルツの違いでも聞き分けられるため、たったそれだけのズレでもはっきりと意識されてしまうらしい。そしてその周波数に合わせて演奏するにも数日間の練習期間が必要らしいのだ。
また、日本の音楽教育には固定ドと移動ドの2種類の音名の読み方があり、とくに絶対音感をもつ人たちを混乱させているらしい。その理由については本書を参照して頂きたい。
このように本書には音楽家の個人的な体験や苦悩、音楽教育の理想像、西洋音楽史と絶対音感の関係、音の識別能力に関する最先端の科学的研究など、絶対音感が聖アウグスチヌスやメルロ=ポンティの引用も含めて、じつにさまざまな角度から論じられており、僕のように音楽と思想の両方を愛好する人間にとってはこたえられない魅力をもった内容になっている。
音楽に絶対的な基準などなく、一人ひとりの音楽を楽しむ人間がいるだけだという本書の展開は、一見ロマンチックに過ぎるかもしれないが、そこに理論の余白のようなものがあるのだろう。それがなければ僕のような絶対音感のない人間が音楽を楽しむことなど、そもそもできなかったはずだからだ。