大学時代に文学批評をかじったことのある人間としては、「物語(ストーリー)」という言葉にどうしても敏感になってしまう。最先端の文学批評にとって「物語」という概念は批判的に取り上げられることがほとんどだからだ。
現代の文学批評が「物語」に批判的である理由は、小説や映画などを読み解くときに、僕らがあまりにも「物語」に目を奪われすぎて、実は作者がいちばん苦労している文体や形式の問題や、作品に織り込まれた時代の風俗的な背景、その他多くのとても大事なことを見逃してしまうからだろう。
たとえばあなたが映画に行ったとする。見終わったあとに真っ先に話題になるのは、たぶんストーリーのことだろう。「おもしろかったね」「最後までハラハラしたね」「ストーリーが複雑すぎてよくわからなかった」などなど。
もう一歩踏み込んだとしても、せいぜい登場人物の心理分析だろう。「あんなに恋人のことを愛せるなんてすごいね」「子供の頃の心の傷が、犯人を殺人鬼にしたんだよ」などなど。
ところが、「あのシーンのカメラは広角レンズを使っていたね」「あのシーンの証明はちょっと黄色すぎたんじゃない?」「あのシーンは1カット5分以上でびっくりしたよ」など、映画のカメラワークや、ライティング、プリントの方法、カットの長さなどを話題にする人は、まずいないだろう。
しかし、実際に映画を作っている映画作家にとって、いちばん頭を悩ませるのは、主人公の心理状態やストーリーそのものではなく、それを「どう撮るか」という技法・形式の問題のはずだ。ひとつひとつのシーンをどのアングルで、どの距離で、どのような照明で、1カットどれくらいの長さで撮るか、カメラは動くか動かないか、BGMはどのタイミングで入ってくるか(それはフェイドアウトするかカットアウトするか)などなど。
現に、あのサスペンス映画の巨匠アルフレッド・ヒッチコックは、わたしは映画のストーリーにはまったく興味がありません。わたしに興味があるのは、どう撮るかということだけです、という意味のことを言っている。
つまり、本当に面白い映画を撮る人にとって、ストーリーは二の次で、いちばん大事なのは「どう作るか」という技法・スタイルの問題なのだ。これは小説など、その他の芸術ジャンルにも共通して言える。
小説にしても映画にしても、本当に重大な問題は、「なにを描くか」ではなく、「どう描くが」である。中身ではなく形式、ストーリーではなく、スタイルが問題なのだ。
そういうわけで、僕はやたらと「物語」とか「ストーリー」とかいう言葉を口にしたがる人や、なにかにつけて「物語」を見出したがる人の言うことは、条件反射的に疑ってかかるような性格になってしまった。
そして、意外なことに、僕は会社に入ってから、学生時代にも増して「物語(ストーリー)」という言葉を耳にするようになった。しかもそれは、文学や映画といった芸術ジャンルについてではなく、会社の経営に関してである。
僕の周囲にいる会社の人たちが、何か対外的な説明資料を作るときにもっとも重視するのは、その資料が全体としてまとまった「ストーリー」になっているかどうか、という点なのだ。要は資料に一貫性があるかということなのだが、彼らはそれを「ストーリー」という単語で表現しようとする。
他の単語を使わずに、「ストーリー」という単語で説明の一貫性を表現していることが、ひじょうに興味深い点である。
ところで、「ストーリー」という言葉の使い方について、最近面白い本を見つけた。「眠れる遺伝子進化論」(四方哲也著・講談社)という生物学の書物で、ダーウィンの進化論を、今はやりの複雑系の観点から鋭く批判している。
ダーウィンの進化論批判については、すでに今世紀初めに哲学界からアンリ・ベルクソンの「創造的進化」というきわめて優れた批判が発表されているので、この書物はその生物学的裏付けといったものだと感じたが、僕が面白いと思ったのは例によって一見非本質的と思われる点だ。
著者の四方氏がダーウィン進化論を批判するときに、「ストーリー」という言葉を使っているのである。
「たとえば、水中で発生した生物は魚類へと進化してエラ呼吸を行っていたが、やがて肺呼吸という機能を得て上陸をはたして、爬虫類などが誕生する。これを『水中の生物が陸に上がって生活するために肺で呼吸するようになった』と表現しても、もちろん科学的な記述とはいいかねるが、まったく事実と異なるとはいえないし、ストーリーとしてはわかりやすい面を持っている」(同書p.32)
「有利さによって結果が生まれるというストーリーが怪しくなれば...」(同書p.34)
他にもこの本の中から「ストーリー」「お話」「物語」ということばをいくらでも見つけ出せるが、その用法から、はからずもこの書物は一種の物語批判になっている。
四方氏が「物語」という言葉を使うとき、それはかならず「非科学的である」という意味を含んでいる。なぜなら、物語は、結果から解釈した原因を、ほんとうの原因であるかのように思い込んでしまうことだからだ。
たとえば、現在地球上に存在しているキリンの首はすべて長い。だからといって、キリンが生き残るためには首が長くなきゃいけなかった、と結論づけるのは間違いである。これは科学的説明ではなく、たんなる「物語」なのだ。
ところが、四方氏も指摘しているように、「物語」が始末が悪いのは、「わかりやすい」点にある。わかりやすいだけに、たくさんの人が「なるほど」とすぐ納得してしまうのである。それが生物学的に間違っていても、「物語」はわかりやすいだけに、簡単に人を説得してしまう。
つまり、「物語」とは、「わかりやすいウソ」である。
僕が会社生活を送っていると、何かに付けて言われるのが、この「わかりやすさ」である。とくに僕のように日常会話にも小難しい単語を使うディレッタントは、一般ピープルに毛嫌いされるらしく、「もっとわかりやすく」ということをよく言われる。
周囲の人たちが対外的な説明資料を作るときに、「ストーリー」を重視するのも、おそらく「ストーリー」のある説明資料は「わかりやすい」からなのだと思う。
しかし、「わかりやすいストーリー」は、往々にして「ウソ」である。結果としてでてきた現象を、一つの原因で説明できたからといって、次に同じ現象が起った時も、同じ原因だとは限らない。
ところが、いったん「わかりやすいストーリー」が出来上がってしまうと、事の真相は見過ごされて、次回も、その次も、同じ「ストーリー」が説明資料に使われてしまう。その「ストーリー」を読んだ経営陣が「なるほど、そういうことか」と納得している間に、事態はますます悪化していく。
これが「ストーリー」の恐ろしさである。
「わかりやすさ」の落とし穴である。
企業が生きている現実の環境は時々刻々変化しているのに、その企業が抱える問題に対する説明が、つねに同じ「ストーリー」で分析できるわけがない。本当に分析しようとすれば、それはいくつかの原因がからみあった複雑な現象だということになるかもしれない。
にもかかわらず、ある一つの現象が、ある一つの「ストーリー」で「わかりやすく」説明できたからということで、その「ストーリー」が一人歩きしてしまう。企業経営を戦国武将の英雄「物語」になぞらえたがる経営者は、その最たるものである。
「物語」をたんなる「物語」としてしか読み解けない人間は、おそらく一つの解釈にしかたどり着けない。「わかりやすい物語」を手にした瞬間に、彼の思考はストップし、その物語の美しさや、見かけ上の理論的一貫性に納得してしまうからだ。
しかし、そうした単眼的な「物語」から抜け出て、「物語」を「物語」以外の視点から解釈するためには、他の方法が必要なのである。他の方法とは、文学批評が提唱しているような、テマティックであったり、文体論であったり、つまり、一見、ひじょうにつまらない事にこだわる姿勢である。
前にTVで、東京ディズニーランドの集客力を、研修の一環として社員に分析させた会社が紹介されていた。多くの社員が、ディズニーランドのアトラクションの中身や、広告戦略などの注目したのに対し、一人の社員は、ディズニーランドのあらゆる建物に使われている「ちょうつがい」を徹底的に調査したそうだ。
ディズニーランドは、建物の個性に合わせて「ちょうつがい」にまで気を配っている。そのことに気づいたとき、ディズニーランドという一大幻想を作り上げるのに、いかに周到なプランが必要かを知ることができる。ところが、ディズニーランドの「物語」そのものに気をとられて、「ちょうつがい」を見逃した人たちは、しょせんそれだけの分析力しか持たないのである。
映画のほんとうの面白さも、「物語」にはない。エリア・カザン監督の「エデンの東」のラスト近く、突然カメラのフレームが斜めに傾くカットに気づいたとき、見ている僕らは父と子の悲しい破局をいち早く知ることができる。
おそらく、経営が「わかりやすい物語」にこだわっているかぎり、事態の本質を見逃し続けるだろう。本質的な変化が、「わかりやすい物語」の修正を迫られるまでに浮かび上がってきたときは、すでに手おくれなのだ。本質的な変化は、「ちょうつがい」のようなごく些細なところに最初にあらわれる。
しかし、サラリーマンたちは今日も「わかりやすいストーリー」を追い求めて、重要な変化をいとも簡単に見逃してしまうのである。サラリーマンは気楽な稼業と来たもんだ、ってなわけで、わかりやすいストーリーに飛びついて、現実はそういうものだと安心してしまう。
ところが、サラリーマンは気楽な稼業と来たもんだ、と言っていたあの人の映画に、物語があっただろうか?徹底したナンセンスは物語批判のひとつの方法だ。ところが、実務家はナンセンスをもっとも嫌う。
そのくせ、自分自身、「物語」という限りなく無意味に近いものに執着している。「物語」はもっともらしいだけに、その「物語」に依存する実務家の病の根は深い。
物語批判がいちばん必要とされているのは、文学でも映画でもなく、経営なのかもしれない。