think or die :
1970年代生まれの
人たちのための
エッセー集
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続・腐ったほうれんそう
他者の理解不可能性
1998/09/14

先日アップしたばかりのエッセー『腐ったほうれんそう』に、さっそく読者の方から反響のメールをいただいた。なるほどとうならせる内容だったので、ぜひ皆さんにも紹介したい。題して、『続・腐ったほうれんそう』。

なお、メールをいただいたご本人に許しを得たわけではないので、名前はふせておくことにする(斜体がメールからの引用)。

この読者は、僕の「中間管理職」というニュートラルな表現よりももっとラジカルな「欠陥管理職」という表現で、彼らの行動基準が「他人(≠他者)への不信感」であると言い切っている。

たしかに中間管理職が、かんたんに他人の言うことを信頼するようなおめでたい人格で勤まるわけがない。まったく中間管理職とは、他人を信じないことによって成立する職制である。

なぜ他人を信頼しないのか?自分自身の「組織地位保全のため」である。中間管理職に限らず、いちど会社組織にコミットしてしまったサラリーマンと呼ばれる人々はすべて、組織と運命をともにしている。

その組織を維持する自己組織化のしくみを実現すべく、会社組織は「地位保全」という人間の欲望を利用している。それがとりわけ中間管理職に、尖鋭に表現されているのだろう。

したがって中間管理職は、「他人の情報を出来るだけ収集し他者の行動を監視することに躍起となる」。組織は、中間管理職の「地位保全」欲求を利用することで、自己組織化だけでなく、情報収集という結果をもひきだすことに成功している。

残るは、組織の一細胞が、どのように自分の収集した情報の真実性(のアリバイ)を得るか、その点にかかっている。メールを頂いた読者は、この点についても鋭い考察を加えている。

「ノミニケーション」とは、正しい情報を得るための手段ではなく、単に、そこで得られた情報は正しいんだと信じこませるためのアリバイにすぎない、と書いているのだ。

かならずしも「ノミニケーション」によって正しい情報が手に入るとは限らない。しかし、「『俺とあいつは酒の席でお互いに腹を割って話し合った』というフィクションが、彼らに根づいている他人への不信感を和らげる」のである。

ならば、その代替物である「ほうれんそう」が、正しい情報を得るための手段であるはずがない。それはむしろ、真実性のアリバイ(不在証明)を作り出す装置なのだ。ないはずの真実を捏造するためのしくみにすぎないのである。

ここでもわが読者は簡潔にして要をえている。「『ほうれんそう』は組織内の情報伝達を迅速かつ正確にする手段ではない。それは他部署や上司に情報を漏洩させないための情報統制手段である」

まさに「ほうれんそう」は、真実を隠蔽するためのベールのようなものなのだ。そのベールによって中間管理職は自分自身の人間不信さえも覆い隠し、しかも組織の一細胞として、みずから自己組織化の運動の犠牲者となる。

では、こうした真実を隠蔽するしくみが生み出されるベースには何があるのか?わが読者は、この質問のウラを先取りして、「他者の常駐は自然であり自分が意思伝達行為を行う限りにおいて他者との共生が可能となる」と書いている。

中間管理職は「理解不可能な他者」の存在を認めていない。彼らは、自分の部下が自分にとって「理解可能な身内」であるという前提で考え、行動する。だが実際には、組織を構成するのは、おたがいに理解不可能な他者であり、そこには乗り越えることができない深淵がたしかに存在する。

それを覆い隠すための、最初の暴力、最初の同一性の確認を、彼らは「ノミニケーション」や「ほうれんそう」のかたちで反復しているのである。「私たちは、身内なんだから、おたがいに理解しあえるのだ」と。

彼らの試みは最初から頓挫している。最初の同一性の確認は、すでにそこに乗り越えがたい深淵が存在していたことの何よりの証拠である。いくら隠そうとしても、その隠すという行為そのものが、かえって他者の理解不可能性を強く意識させる皮肉な結果となる。

だから、人間不信に陥りながらも、相互理解のアリバイを得ようとしつづけるという、終わりのない循環にのみこまれてしまう。「ほうれんそう」という事態が図らずも明らかにするのは、このような失われた原=暴力の痕跡なのだ。

では、この読者に示唆していただいた深刻な事態について、僕らはいったいどうすればいいのか?それはもちろん、「他者は理解不可能である」という方向にハンドルを切り直すことである。

たとえ自分の部下であろうと、けっして「身内」ではない。そう認めたときに初めて悪循環から脱することができる。

なぜ「ほうれんそう」が必要だったのか?それは「身内」であることを確認するためではない。「身内」をもとめる欲望の中に、「じつは他者は理解不可能なのだ」という、失われたものの痕跡=真の他者性への欲望が宿っていたのだ。

それに気づいたとき、「ほうれんそう」ははじめて、正しい「ほうれんそう」に近づいていくだろう。