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![]() わかりやすさ症候群 2 ( 19990419 ) 先日(1999/4/12)東京大学の入学式で蓮實重彦氏が式辞に50分近くもかけたというので話題になった。しかも蓮實氏独特の婉曲語法(?)たっぷりなので、聴かされている方はたぶんさっぱり分からなかったに違いない。式辞の全文が読売新聞のサイトに掲載されているので、興味のある方はぜひご一読を。(それにしても蓮實氏の式辞全文がよりによって読売新聞のサイトに掲載されるとは面白い。) でもよくよく読んでみると蓮實氏の言っていることは、このページでおなじみのテーマばかりだ。まず「齟齬・違和感」とは差異を差異としてそのまま受け止める態度であると言っている点。「経済のグローバル化」という紋切り型など、二項対立の構図を作って、その一方だけを良しとするものの考え方を批判している点。「質」の評価を「量」の計測にすりかえることの間違いを、アンリ・ベルクソンを引用しつつ糾弾している個所。すべてこのページの読者にはおなじみのテーマだ。 蓮實氏の肩を持つわけではないが、いったいなぜ蓮實氏がこれほど迂遠で「わかりにくい」ものの言い方をせざるを得ないのか、その点を聴衆は考えてみるべきだ。蓮實氏は違和感について語っているのだから、その語り口も聞き手に違和感を抱かせるものでなくてはならない、それだけのことである。 入学式とは新入生を東京大学の権威にのみこんで同化するための儀式ではなく、むしろ新入生同士や、新入生と教授の間の違和感をそのものとして受け止めるスタート地点である。式辞らしい式辞を求めていた聴衆の期待を裏切ることで、何事にも簡単に決着をつけてしまおうとする安易な考え方を退けている。言いかえれば日本や世界の現状に対する蓮實氏の認識は、それほど厳しいものだということである。 読売新聞のインタビューに答えて蓮實氏は言っている。「『100%わかんないとわかったことにならない』と思うのは、現実に対する侮蔑(ぶべつ)だと思う。また、わかんないはずのことをわからせるのは詐術なんです。」つまり、何でも100%理解できるんだと思うこと自体が思い上がりだし、分からないはずなのに分かったように思わせることはペテンなのだ。 前置きがかなり長くなったが、今回はクルーグマン教授のベストセラー『Peddling Prosperity(経済政策を売り歩く人々)』をネタに「わかりやすさ症候群」のパート2と行ってみたい。 相変わらず世の中には「わかりやすく、わかりやすく」という言葉が氾濫している。先の東京都知事選挙では、非常に重要で繊細な政策論争がすべて無視され、もっとも「わかりやすい」候補者が当選した。選挙運動中にもテレビ曲は軒並み候補者の政策を、時間的にも内容的にも切り詰めて「わかりやすく」報道することに腐心していた。報道機関がそんないい加減な世論形成をしていたのでは、いちばん「わかりやすい」候補者が当選するのは当たり前だ。 一方、身近なところでは僕の日々のサラリーマン生活でも、相変わらず「わかりやすく、わかりやすく」が繰り返され、本来は慎重な議論を要する問題までもが、「アカデミックだ」という批判の言葉とともに白か黒かの単純な二項対立にすりかえられていく。 先日、ある部署の長に就任した偉い人が歓送迎会のスピーチで曰く、「何もむつかしいことをやるつもりはありません」。そんなに簡単だったら誰も苦労しないよ。日本企業が不況の打開策をなかなか見つけられないでいるのは、問題が今までにないほど難しいからなんじゃないの? クルーグマン教授の『Peddling Prosperity』という本は、レーガン政権から現在のクリントン政権にいたるまで、緻密にねりあげられた経済学説が無視され続け、そのために現実の経済政策が「わかりやすい」政策論者たちによっていかに歪められてきたかを見事に描き出している。 レーガン政権時代にあっては「サプライ・サイド」の経済論者が「大きな政府はダメだ!」「税金を減らせ!」という、非常に「わかりやすい」スローガンを掲げて経済政策をリードしたために、生産性の低下と貧富の差の拡大という深刻な問題を生み出した。 クリントン政権は新ケインズ派によって正しい舵取りで出発するかに見えたが、たちまちクルーグマン教授がstrategic traderと名付ける人々が政策の決定権を握り、保護貿易主義に突き進みつつある。先進諸国は国際市場で競争しあっているという「わかりやすい」構図が、米国内の経済だけでなく、先進諸国の経済にまで悪影響をおよぼそうとしている。 この本が出版された1995年の段階で、論壇の反発を恐れず保護主義の台頭に警告を発した教授はやっぱりすごいと思うが、アメリカはそれでもまだ救われている。というのは先日、FRBのグリーンスパン議長が米国政府の保護主義の台頭を厳しく批判している記事が新聞に載っていたからだ。FRB議長という要職に就いている人物が、「市場のグローバル化」という「わかりやすい」けれどもナンセンスなスローガンをちゃんと批判できている。(それに比べれば日銀の模様眺めの金利政策は「及び腰」と非難されても仕方ないだろう) 『Peddling Prosperity』は「わかりやすさ」に徹底抗戦するクルーグマン教授の孤独な闘いの手記としても読める。その最後の部分には、教授の経済学者としての倫理観がはっきりと記されていて感動的でさえある。拙訳で引用してみたい。 「経済学者が何年もかけて、洗練された理論を作り上げたり、自分の考えを注意深く検証したりしているのに、政治家たちは数十年前、場合によっては数世紀も前に間違いだと分かっている考え方を何度も取り上げたり、単に事実に反することを言ってみたりする。 そりゃあきらめたくもなる。象牙の塔に引きこもってしまおうか。政策論者たちのゲームに加わろうか。わかりやすい考えがいつも勝ってしまうなら、結局、洗練された政策議論や注意深い事実の検証など何の役に立つだろうか? それに対する一つの答えは、あきらめるのは間違いだということ。正しい考えを持っている人たちが闘うのをやめてしまえば、悪い政策の結果を批判する権利も失ってしまう。 しかし、正しい考えが便利な屁理屈に負けてしまうことはよくある。そうなってしまったときには、まじめな経済学者たちは皆、最後には正しい考えが勝つと信じることでなんとか持ちこたえている。政策論者のわかりやすさとは違って、経済学の正しい思想は年とともに積み重なっていく。(中略) 長い目で見れば、僕らはみんな死んでいる。けれども、正しい考えは生き続けるという信念を、捨ててはいけない」(同書「エピローグ」より) もちろん僕は学者ではなく一介のサラリーマンだ。明らかに間違っていることであっても上司や本社の方針には反論できない。教授のように職場(教授なら学界、僕ならオフィス)で自分の反論を提示できないので、結果が悪く出たときにそれを非難する権利を手に入れることもできない。 僕のホームページはそのための傍白の場として存在している。自分が間違っていると思うことについて、なぜ間違っているのかを正確に検証するための場として存在している。そういう場がある限り、僕は会社やサラリーマンというものに同化されてしまうことはなく、永久に齟齬、違和感、そして隔たりを感じつづけるだろう。 滅私奉公がサラリーマンの倫理だった時代は終わっている。会社という場における僕の齟齬、違和感、そして隔たりは、自分がたしかに「わかりやすさ」に流されていないということの何よりの証拠であり、それこそが新しい時代のサラリーマンの倫理(working ethic)であるはずだ。 無断転載禁止
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