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司馬の危険性

サラリーマンの愛読書

1997/09/28

サラリーマン的価値観批判に欠かせない要素に、司馬遼太郎の存在がある。

直木賞作家という肩書そのものがサラリーマン的価値観の代名詞と言えるが、とりわけ司馬遼太郎は「高度経済成長期に作家として名を成した人にふさわしく、サラリーマンなどの中産階級や管理者の心情にぴったりくる書き方を心得ていた」(岩波ブックレット「近現代史をどう見るか−司馬史観を問う」p.59)。

残念なことに最近の研究によって司馬の歴史観がひじょうに偏ったものであることが明らかになってきている。

こうした司馬史観批判のきっかけを作ったのは、言うまでもなく1997年中学校の歴史の教科書にいわゆる従軍慰安婦問題が掲載されたことに端を発する、「自虐史観」論争である。「ゴーマニズム宣言」で有名な小林よしのりなどに見られる「自由主義史観」のよりどころとなっているのが他ならぬ司馬の歴史観なのである。

彼らが大戦中の日本によるアジア諸国侵略を正当化するにいたって、彼らが依拠する司馬史観そのものの批判が活発になっている。もっとも、司馬にとってみればとんだとばっちりかもしれないが。

司馬史観がある意味でいかに「いい加減」であるかの精緻な論証は、上掲の岩波ブックレット「近現代史をどう見るか−司馬史観を問う」他を参照いただきたい。

偶然この文章を目にされた司馬ファンの方は幸運だ。あなたが司馬史観に強い影響を受け、歴史通を自認されているとすれば、将来アジア諸国との友好関係を傷つけることにもなりかねないので、すぐにでも自分の歴史観を修正されるようお勧めする。

ここでは、司馬史観そのもの検討ではなく、なぜ司馬が広くサラリーマンの支持を集め「日本の良識」のようになってしまったのか、という受容の問題を考える。その理由をここでは、(1)大局主義(2)主体主義(3)疑似科学と名付けておく。

大局主義とは、小さなことにこだわらず、大きな目でものごとを眺めることである。これはサラリーマンの出世原理であり、管理職の要件とされている。とくに管理職層が細部にこだわる「オタク」的人格を蔑視するのも、この大局主義にもとづいている。

しかし、大局主義は重大な欠陥をはらんでいる。司馬史観についてはそれは二重の批判を受けている。ひとつは「天才主義」という言葉で加藤周一によって批判されている点。もうひとつは「相対主義」としての批判である。

「天才主義」として司馬を批判する論拠は、司馬が歴史上の英雄たちの華々しい活躍は描くが、民衆を描かないことにある。歴史的事件の原因がすべて英雄たちの決断に帰されてしまうのだ。

大局主義の弊害は、ある現象をいちばん目立つ原因で説明することで、いくつかの要素が複雑な相互作用を引き起こしている現実を隠してしまうことにある。現実を単純化しすぎるのである。

もうひとつの「相対主義」というのは、人類数千年の歴史、幾多の戦争があった、日本の朝鮮侵略もその一つにすぎない、という見方だ。このように個々の事件の重大性を「悠久の歴史」に溶かして薄めてしまう。

たとえば「歴史の交差路にて」という鼎談で、司馬は日本の朝鮮支配について「外圧は、まことに申し訳ないことでしたが(笑)」と、笑いを交えて語っている。大局主義をとる司馬にとって数万の人間の死は「(笑)」で済まされるものなのだ。

以上「天才主義」と「相対主義」の2点で批判されている、司馬の大局主義は、もうひとつの弊害に通じている。大局主義は、歴史は天才の主体的な行動によって動かされてきたと見る。これをここでは主体主義と呼ぶ。

主体主義的な見方では、一人の人間の力ではどうにもならない文化的・経済的条件が軽視されてしまう。

人間はたしかに自由に自分の行動を選びとることで、主体的にふるまうが、どれだけ主体的に行動しようとしても、日本語という母語の制約、個人的な生い立ち、90年代の経済状況など、いわば「構造的」な条件によって根深いところで制約をうけている。

主体主義者は、そうした制約こそ主体的な行動で克服すべきなんじゃないか!と主張するが、その結果、彼らには身体障害者や在日外国人など社会的マイノリティーが見えなくなってしまう。他ならぬ自分たち自身が、マイノリティーの主体的行動をはばむ脅威・障壁になっていることに気づかないのだ。

最後に3点めの疑似科学であるが、司馬作品は科学的客観性を巧妙に装っている。たとえば上掲書にひかれている日露戦争についての司馬の一節「強いてこの戦争の責任者を四捨五入してきめれば、ロシアが八分、日本が二分である」は、あたかも根拠があった上での数量化のように記述することで、科学的なふりをしている。

司馬は自分の博学と科学を混同しているように思われる。実はこの点こそ僕が司馬を嫌悪する最大の理由なのだが、真の科学性・客観性の追求は徹底した自己批判をベースにして初めて成立するものである。

しかし、司馬は自分の過ちを認めるには自信過剰である。余裕がありすぎる。逆に言えば、論理的根拠のない自信・余裕こそが、サラリーマンの処世術に通じているのである(この点については、「学歴嫌い」をテーマに別項で論じる)。

以上、司馬作品に見られる(1)大局主義(2)主体主義(3)疑似科学の3つの本質は、そのままこれまでの時代のサラリーマン的な精神性を支えてきたものでもある。

これら3つの観点は、日本の社会が単一の目標を掲げ、均質な価値観を持ち、線形の成長課程にある限りにおいては有効だが、価値観が多様化し、経済的条件も複雑な動きを示す現代においては、明らかに妥当性をなくしている。

現代のサラリーマンはこれら3つの観点を反省することで、これからの立脚点を模索しなければならない。司馬にしがみつくことは簡単だが、状況はそれを許さない。

まず、大局主義に代えてフラクタルな観点が必要になる。フラクタル図形のように、微細な構造にマクロの構造を発見する洞察力が重要になってくる。

そして、主体主義に代えて環境の観点が必要になる。人為的な努力によって環境はどのようにも改変できるというのが、これまでの誤った考え方。これからは、一人の人間、一企業の努力ではどうにもならない問題に取り組まなければならない。

最後に疑似科学に代わる厳密な論理。近代社会の枠組みそのものが問い直されている今、近代社会を規定してきた基礎理論の厳密な再検討が必要である(もちろんこれは専門家の仕事だが)。

それぞれの問題点については、このページで詳しく考えていきたい。いずれにせよ司馬遼太郎は、偉大ではあるが、現代に有効な射程をもつことのできない「過去の作家」である。



岩波ブックレット No.427『近現代史をどう見るか−司馬史観を問う』
中村政則(なかむら・まさのり)

1935年 東京生まれ。一橋大学大学院経済学研究科博士課程修了
1977年 一橋大学経済学部教授
1979-80年 米国ハーバード大学客員研究員
専攻:日本近現代史



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