think or die :
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脅迫的コンセンサス
固定化された自己評価の恐ろしさ
2000/07/22

人間、自分でダメだと思うから、本当にダメになってしまうのか?本当にダメだから、自分でダメだと思ってしまうのか?自己評価と客観的評価はどちらが原因でどちらが結果なのか。これはよく問題になることだ。

で、答えはどちらなのだろう。おそらく、自己評価が原因というわけでもないし、客観的評価が原因というわけでもない。自己評価と客観的評価は循環しているのだ。「他人の評価が低いから自信をなくしてしまう」という考え方も正解だし、「自信をなくしたから他人の評価が低くなった」という考え方も正解だ。言葉をかえれば、どちらも正解でない、とも言える。

ではそのように自己評価と客観的評価が循環してしまうことは、人間にとって不幸なことなのだろうか?決してそうではない。なぜなら、そのような循環があるからこそ、自己評価を変えることで客観的評価まで変えてしまう可能性が生まれるからだ。もっとシンプルに言えば、志あるところに道はある、という言い古された格言になる。

一人の人間の自己評価と客観的評価についての以上の議論は、一つの企業についても当てはまる。企業の「自己評価」とは、社員の企業に対する評価であり、「客観的評価」とは社員以外の一般の人々の評価である。

例えばここに売上規模を拡大して中小企業から中堅企業、さらには大企業へ成長しようとしている企業があるとする。ところがその企業の社員の中に「ウチは中小企業なんだ。大企業じゃない」という考え方を変えようとしない人たちがいるとする(おそらく彼らはベテラン社員である)。

せっかく規模拡大によって客観的評価が上がり、それにともなって例えば銀行からの融資枠が広がるなど、さらに事業を拡大するチャンスをつかんでいるにもかかわらず、社員の自己評価がいつまでも「ウチは中小企業だ」という矮小なものであり続けるとすれば、その企業に未来はない。

中小企業が大企業に成長するとき、言うまでもなく必ず組織上の変質をともなう。それまで人海戦術や社員どうしの個人的な信頼関係で乗り切っていた業務も、同じやり方では実質的に処理できなくなってしまう。そうなるとどうしても「制度化」が必要になる。

つまり「あ・うん」の呼吸でなされてきた業務や暗黙の了解をルールとして明文化する必要があるということだ。というのは、増加する業務量を自動化(情報システム化)するにしても、外注化(アウトソーシング)するにしても、外部の人間にも理解できる形で提示する必要が出てくるからだ。(増加する業務量をすべて自前でやろうとするのは論外)

そのような「制度化」のためには、当然コストと時間がかかる。ところが「ウチの会社は中小企業だ」という自己評価を捨てられないベテラン社員たちは「制度化」に抵抗する。「ウチは中小企業だから」そんなことに使う金や時間など持っていない、というのがその理由だ。

「制度化」のコストは企業が成長するために必要なコストなのは自明である。お金がもったいないと言って赤ん坊のミルクを半分に減らす親がどこにいるだろうか?人間を成長させるにせよ、企業を成長させるにせよ、コストはかかる。厳密に言えばそれはコストではなく投資だ。

では、なぜそれらの社員たちは短期的なコストの動きしか考えず、いつまでも中小企業という自己評価にこだわるのか。彼らには「ビジョン」や「理想」がないからである。「将来ウチの会社はこうなるべきだ」という「ビジョン」や「理想」のようなものを持っていれば、誰も古い自己評価にこだわったりしない。

ではなぜ往々にしてベテラン社員たちは「ビジョン」や「理想」を持てないのか?理由は2つある。一つはベテラン社員であるがゆえに日常業務の技術的な面に拘泥してしまうこと(=木を見て森を見ない)。もう一つはもっとタチの悪い理由。残りの会社員生活を、波風たたせず無難に勤め上げたいということ。

ここまで議論が進むと「人事評価制度の問題だ」という結論をつけたくなってしまう。日常業務を無難にこなして波風を立てないように注意を払っている社員が評価されるような企業は成長できない、などなど。

しかしもう一段掘り下げて問いを続けることもできるだろう。ビジョンを持っていないという自らの問題点に、どうして自分で気づくことができないのだろう、という問いだ。問題があってもそれが問題であることに気づけなくなってしまう。それが「組織」というものの恐ろしさである。

「それが『組織』というものの恐ろしさである」などと書くと非論理的になってしまうが、なごやかなで居心地のいい職場ほど、問題点を問題として認識できない危険性が高くなる。「居心地がいい」という状態は、問題を問題でなくさせる環境になりうるからだ。例えば雪印乳業はとても居心地がいい職場だったに違いない。

しかし「居心地がいい」ことはときに悪い結果をうむ。さて、そろそろこの辺で同一性と差異というキーワードが顔を出し始める。

自己評価と客観的評価の循環こそ成長を産むというのは、自己評価と客観的評価という2つの極が一か所に落ち着くことなく、絶えず循環して初めて何らかの変化が起こりうるという意味である。

ところが悪しきベテラン社員は「ウチは中小企業だから」と客観的評価と自己評価を同一のものと見なしてしまう。2つの極が固定化されると、一見そこには「居心地がいい」コンセンサスが生まれたように見えるが、そこにあるのは「死んだ」コンセンサス、コンセンサスならぬコンセンサスなのである。

そしてこの「居心地がいい」コンセンサスは、実は脅迫的コンセンサスなのだ(これが今さっき「コンセンサスならぬコンセンサス」と書いた理由である)。「居心地の良さ」を維持するためには、HACCPのルールを破ることを強要されるし、リコールの隠蔽にも協力しなければならない。そしてそのような自ら作り出した罪の意識が社員どうしの一体感(同一性)をさらに強める。

では、「ビジョン」や「理想」という議論のネタを用意することで、死んだコンセンサスを、論争の(polemic)コンセンサスに変質させることができないとき、企業はどうすればいいのか。答えは比較的簡単で「異分子」を入れればいい。それも現状の社内の「居心地の良さ」に順応してしまわない異分子を中途採用で入れることだ。

そう考えると、雪印乳業の問題に日本のTQCの黄昏を見るのは議論が狭い。同社の問題は戦後日本企業が発明した「終身雇用」という制度の制度疲労ではないだろうか。終身雇用は上述したような脅迫的コンセンサスをかんたんに作り出す。終身雇用が制度疲労を起こしたところへ、大規模なリストラをやれば、残された社員たちの間のコンセンサスはさらに脅迫的になる。リストラの結果、「異分子」が新たに入ってくるわけではないのだから。

社員の自己評価が固まってしまっている企業の先にあるのは、安全なようでいて実は危険な道なのかもしれない。