think or die :
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偉大なるイタチごっこ
日本的「組織改革」の落とし穴
2000/09/06

あなたは会社でも大学でもいい、なんらかの組織の構成員である。会社なら社員、大学なら学生か教授だ。そして組織の既存の体制に反対する運動を起こそうとしている。このとき、日本人であるあなたが犯す可能性の高い過ちがある。それは体制に反対したつもりが、自分で「ミニ体制」を作ってしまうという過ちである。

いま『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)を読んでいるのだが、この本では1960年代の大学紛争が失敗に終わった原因について何度も言及されている。当時村上春樹は大学生であり、河合隼雄は大学教員だったが、不思議なことに両者の意見は一致している。

つまり、当時の学生は反体制を標榜しながら、実は全学連という「ミニ体制」を作ってしまったというのがその原因だ。そのためついに真の反体制運動にはなれなかった。結局、学生たちは自分たちの批判する当の大学とまったく同じような「ムラ社会」を形成してしまったのだ。

で、「ムラ社会」を形成した改革派が何をするか。「踏み絵」である。「あなたはわれわれの仲間なんですか!それとも彼らの仲間なんですか!」という二者択一を突きつける。「われわれの仲間に入らなければ、あなたも体制派だ!」という心の狭いセクト主義のできあがりである。

このページの賢明な読者ならもうおわかりだろうが、ポストモダンの思想家たちがすでに指摘しているように、ほんとうに有効な反体制運動は「体制内改革」しかありえない。つまり体制の内部に入りこんで、体制が体制みずからの力で自己崩壊するような方法しかない。自分が正しいと信じてひたすらコミットするというだけでは事態は決して打開されないのだ。

ところで、会社でも同じようなことが起こりうる。たとえば高い目標をかかげて組織変革をやろうとする。いわば会社組織の中での「反体制」運動だ。しかし日本人はどうしても意見が同じメンバーだけの「ムラ社会」を作りたがる。日本人は「ムラ社会」のメンバーだけでの「陰の動き」というのが大好きだ。そして反対派を様々な手段で回避しようとする。「踏み絵」もやる。「あなたはこっちの味方なのか?あっちの味方なのか?」という選別をやりたがる。

もちろんそれでうまくいくかもしれない。しかし仮にこの方法での組織改革がうまく行ったとして、最後にそこにある組織はどんな組織になっているだろうか。結局、組織改革が始まる前とまったく同じで、意見を同じくする「ムラ社会」でしかないのだ。遅かれ早かれその組織の中には新たな「改革派」があらわれ、また同じ過ちを繰り返すだろう。

そもそも「ムラ社会」に対して、同じような「ムラ社会」で対抗しようとするところから間違っている。保守派の中間管理職を排除して、若手の組織改革派だけで派閥を作ってしまう。そこがいかにも日本人らしい。まさにどこかの保守政党のような派閥抗争の図式だ。まったくバカげている。

若手の組織改革派は自分たちが「新しいこと」や「変化」を正統に求めているのだと思いこんでしまっている。ところが彼らのやっていることは古くから日本のムラ社会を形成してきた派閥意識以外の何ものでもない。既存の組織を改革しているつもりで、実は、別の組織を新しくひとつ作っただけなのだ。これを「変革」とは呼ばない。幹から株を分けただけの話で、幹そのものは何一つ変わっていないし、わかれた株も幹と同じ性格を受け継いでしまっている。

しかし日本人はなかなかそのことがわからない。組織改革をやろうとして、いつの間にかもう一つの「ムラ社会」を作ってしまう。日本人がいかに自分の「日本人らしさ」に無頓着であるかの典型的な例だ。本当に組織改革をやろうと思うなら、既存の「ムラ社会」に加担しながら、知らないあいだに改革へ方向転換させる戦略が必要だ。「俺たちは正しい!あいつらは間違っている!」という派閥的な主張は無意味である。

村上龍はあるニュース番組で少年犯罪について次のような意味のことをコメントしていた。「誰が悪くて誰が正しいという二項対立は無意味だ。こんな可能性もあるのだという第三の選択肢をいかに提示できるか、それが本当に重要なことだ」。

まさにその通りで(会社員だって村上龍から学べることはたくさんある!)改革派をかかげる人たちが自分たちこそ正しいと思いこむのは愚の骨頂だ。自分たちこそ正しいと思った時点ですでに「ミニ体制」「第二の保守派」「もう一つの体制派」になってしまっている。かつての全学連がセクト主義に陥ったように。

普通の会社員はシンプルな考え方に影響されやすく、どうしても二項対立の世界にひかれてしまう。外資系コンサルタントか何かにあなたたちは正しいんですよと言われると、本当に自分たちが正しいのだと洗脳されてしまう。自分たちを気分良くさせてくれる人々としか手を結ばない。結果は「第二の保守派」ができあがるだけなのだが...。

そもそも、自分の耳に心地よいことを言う人々は本能的に疑うべきだ。自分が同じ意見の人間ばかりを身のまわりに集めようとしていることに気づいたら、それはミイラとりがミイラになってしまう危険な兆候だと認識した方がいい。

ただ、もっとカメラを引いてこの状況をロングショットで眺めてみると、それが会社員というものかもしれない、と思う。いま中間管理職やマネージャー層を固めている人々も、おそらくかつては「組織改革派」だったに違いない。そして自分こそが正しいと思い、当時の「保守派」であるマネージャー層に抵抗を試みた。

首尾よく抵抗をかたちにできた人たちは出世して、今は堂々たる保守派になり、今度は自分たちが追われる身になっている。そんな「偉大なるイタチごっこ」の中でこそ会社員は出世するものなのだ。会社員として出世するためにはあえてその「イタチごっこ」に飛び込むべきなのかもしれない。

しかし最近、世の中の変化は激しい。既存の制度は本当の意味で制度疲労を起こしている。若気のいたりで組織改革をした人間が出世して保守派に収まるという「偉大なるイタチごっこ」は残念ながらもう繰り返されないのかもしれない。

だとすれば戦略を変えなければならない。改革派vs保守派という二項対立図式の中で改革派に組みすることは、実はとってもリスキーなことなのだ。むしろ必要なのは「ぬえ」になることではないのか。保守派のふところにも、改革派のふところにもがっちり入り込んで、この二項対立そのものを乗り越えることではないのか。

繰り返しになるが、もし組織改革派のメンバーが「自分たちこそ正しい」と思っているとすれば、それこそその組織が救いようもないほど硬直化している何よりの証拠なのだ。

ほんとうに変化できる組織のメンバーというのは意外にいい加減なものである。思想信条なんて持たない。自分たちが正しいなんて確信はけっして持たない。そのときそのときで正しいと思うことが変わるからこそ、変われるのだ。

本当に変われる人間は、誰が正しくて誰が間違っているかなどという神学論争には無関心だ。そんな思想信条なんてどうでもよくって、正しい人間も間違っている人間も両方を巻き込んで変わる方向へもっていく、そこにこそ真の改革の成否がかかっているのではないか。