どこの企業にも、提案制度というものがあるだろう。職場環境の改善であったり、生産ラインの改善であったり、さまざまなレベルでの提案制度は、現場の声を経営に反映するという、日本的ボトムアップ経営の良い面を代表する制度である。
しかし、提案制度がうまく機能している会社は少ないのではないだろうか?何か業務改善キャンペーンをするたびに新しい提案制度が作られ、「積極的な提案をお願いします!」と案内がまわってくる。でも、誰も提案しようとしない。なぜだろうか?
理由はきわめてシンプルである。「反応がないから」だ。
たとえばあなたが、日ごろの仕事の中でちょっとしたひっかかりがあり、こうすればいいんじゃないかという提案をする。今なら電子メールか何かで所定のアドレスに送信する仕組みになっていることが多いだろう。
で、とりまとめ部署から何か連絡があるかなぁ〜、と首を長くして待っても、なんの反応もない。すると、あなたは非常に不安になってくる。まずいことを言ってしまったのだろうか?表現がキツすぎたかな?ひょっとしたら提案したのは私だけ?...不安は雪だるま式に大きくなる。
そして、期限どおりに提案キャンペーンは終わる。とりまとめ部署からは、「たくさんの意見をお寄せいただき、ありがとうございました」と型どおりの公告文書が出る。あなたはますます考え込む。私の提案はどうなったのか...。
で、あなたが提案キャンペーンのことをすっかり忘れたころに、人事異動で別の課に移ることになる。左遷でも栄転でもないので、単なるローテーションである。でも、あなたはふと、あの提案キャンペーンのことを思い出す。ひょっとして自分の提案が上司の耳に入って、そりが合わないと思われたから異動になったのか?よくわからないけど、とにかく今度あんなキャンペーンがあっても、提案はしないよにしよう。
以上、提案制度がうまく機能しなくなるメカニズム、お分かり頂けただろう。じゃあ何か悪かったのか?最初にあなたが提案を出したとき、何のレスポンスもなかった点である。仮に、とりまとめ部署の担当者が、次のようなメールを一通あなたに返信していれば、あなたは決して疑心暗鬼にとらわれることはなかったに違いない。
営業部 山田さん
総務部の鈴木です。今回は有用なご提案ありがとうございました。
頂いたご提案は、営業部の職場環境の改善のために役立てるよう、総務部としても検討を重ねていきたいと思っております。
このメールそのものは、きわめて形式的な社交辞令でしかない。しかし、このメール一通をもらうのともらわないのとでは、あなたの気持ちはまったく違ったものになっただろう。あなたは半年後の人事異動を、ヘンに提案と結び付けるような疑念も持たなかっただろう。
このような提案制度がきちっと根づくか根づかないかは、ごく些細なことにかかっているのだ。提案制度のとりまとめ部門がちょっとした返答を出せるか出せないか、それが提案制度を生かしもするし、殺しもする。
ところで、同じことは経営にも言えるのではないかと思う。
このHPの読者には若手社員が多いけれども、若手社員は新参者だけにその会社の制度のさまざまなひずみがかえって見えやすい。僕も入社した当初は「みなさんのフレッシュな意見を、どんどん提案してください」と言われたものだ。
しかし「フレッシュ」な新入社員も、ほどなく提案することをあきらめて、与えられた職務を黙々とこなすだけの従順な社員と化す。なぜか?上司からの「レスポンス」がないからだ。
たとえば、自分が関わっているプロジェクトについて、もっとよい手法があると思ったあなたは、上司に提案書としてまとめて提出する。上司はとりあえず受け取ってくれるには受け取ってくれたが、それ以来なんの反応もない。ダメなのか?OKなのか?
時が経つとともに、どうやらダメだったらしいことが「雰囲気」で分かる。じゃあなぜダメだったのか?上司はそれをハッキリ言おうとしない。ここから先はさっきの例と同じく、提案した側に不信感が雪だるま式にふくらんでいき、上司=部下の信頼関係そのものが崩れ去っていく。
これでは提案制度が完全に逆効果になってしまっている。このような不信感はそもそも抱く必要のないものだったはず。では、何が欠けていたのか?上司の一言である。できるだけ早い時期に一言でもレスポンスがあれば、部下の心理はまったく違ったものになっていただろう。
以上見てきたように、提案制度は提案を受ける側の態度によって、組織にとってプラスになるどころが、疑心暗鬼や不信感という大きなマイナスを生む原因にもなる。
ただ、それを避けるのは、ひじょうにかんたん。はじめに提案を受けたときの、ひとことレスポンス。これだけである。これだけをやりさえすれば、次に提案制度を設けたときにも、きっとうまく機能するだろう。
(たびたび登場するが)ドイツの哲学者ハイデッガーは、答えることは責任をとることである、と言っている。そのとおり、英語でもドイツ語でも、「責任(responsibility)」の語源は「答える(respond)」である。たとえ短くても、社交辞令でもいい。とにかく一言コメントをつける、メールの返信を出す。それが、責任をとるということではないか?
1998年6月8日号の米「BusinessWeek」誌に、GEのジャック・ウェルチの経営が紹介されている。個人的にはGE風のマッチョ経営には嫌悪感もあるが、ウェルチが経営者として実践していることはシンプルである。
つまり、社員のアクションに対して、必ずなんらかのレスポンスを返すことである。短いメモから、集中的なミーティングまで、また、よくやったという励ましから、ダメだという率直な評価まで、経営者として意見を返すことである。レスポンスを返すことで、社員は自分の目標を明確化できる。
ところが日本的経営は、ことばでレスポンスを返さない。僕個人も経験があるのだが、「雰囲気」で分からせる。しかしこれでは社員が目標の方向づけをすることもできないし、不必要な不信感ばかりをふくらませる結果に終わる。
やはり上司は、何かコメントをつける、レスポンスを返す、これが最低限行うべきマネージャーとしての「責任」ではないのか?「何もいってくれないんじゃ、わからないじゃないの!」というのは、恋愛小説のセリフだけではないのだ。
ここにも、「ことば」を軽視する日本的経営の欠陥が垣間見られるような気がする。ひとことレスポンスを返すこと、それがそんなに難しいことだろうか?それさえできないマネージャに、いったい何ができるというのか?