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我が尾を食うヘビ
( 20030208 )

Japanese/English

たしかに奇妙といえば、奇妙な体験である。

サラリーマンとしては何の資格もないペーペーでありながら、目の前で起こっているすべてが非合理的であることに気づいているのが、自分ひとりだけであるという体験。サラリーマンになって以来、何度も遭遇しているのだが、単に社歴や経験が浅いだけのことだろうと考えたくても、自分の考えを後押しする論拠があちこちで見つかる。

しかし9割が合意している「間違い」を、1割が反対して阻止するという行動に出ること自体が、企業にとってはコストになる。長期的に見ればそれでも「間違い」を正した方が、費用回避の効果は高いことは間違いないが、目の前で走り始めたことを誰も止められない。往々にして日本的サラリーマン社会は、そのような無駄の上に成り立っている。

ここでは最近の僕の経験から、企業改革のためのヒントを2つご紹介したい。しかしこれらの事例を反面教師として学べる日本企業がどれくらいあるかと思うと、今の日本の閉塞状況もやむを得ないと感じざるをえない。

まず一つめの事例。A社は数年前、とある全社プロジェクトに着手し、P1→P2という順序のプロセスで実行して失敗した。そして同社は今回、同じ目標をかかげたプロジェクトに再チャレンジした。このような事例があったとする。

この事例について、ある社員は次のような判断を下した。「前回の失敗によれば、今回はP2→P1という逆のプロセスで実行すれば成功するはずだ」。しかし、この判断は一つの前提を含意している。みなさんにはそれがお分かりだろうか。

その前提とは、「A社は前回のプロジェクトのときと、ちっとも変わっていない」ということである。仮にA社が180度生まれ変わっていたとしたら、まったく同じプロセスP1→P2を採用すれば、ほぼ間違いなく前回と違う結果が生まれるはずなのだ。

「前回はP1→P2で失敗したから、今回はP2→P1で成功するはず」という判断には2つの欠点がある。まず第一に、こういった思考様式そのものが短絡的すぎるということ。単に順序をひっくりかえせば良い、というのはいかにも単純すぎる思考で、はじめから問題の本質を深く考えようという意思が見られない。

第二に、無意識に変革を拒絶する思考が隠されているということ。事実を成立させる環境は変わっていない、いや、変わって欲しくないという無意識の願望が隠されているという点である。

P1→P2というプロセスをP2→P1に変更することによって、何かを「変革」したつもりになってしまうのだが、残念ながら、手法や手順を変えただけで違う結果が出るという期待は、実は、「組織自体は変わっていて欲しくない!」という隠れた願望のあらわれなのである。

繰り返しになるが、組織自体が変革されていれば、手法や手順が同じでも、必ず異なる結果を生むはずなのである。これをひとことの教訓にまとめると、次のようになる。「手法を変える前に自分が変われ」

次は二つめの事例。

企業を改革するためには、改革の方針を策定する過程にできるだけ多くの社員が参加して合意形成をしなければ、その改革は真に永続的なものとならない。こういった主張をする日本人は、案外多い。

非常にもっともらしく聞こえるのだが、実際には、「大勢の合意形成」に無駄な時間と費用を浪費している企業こそが、最も改革を必要としている企業なのだ。そもそもなぜ「大勢の合意形成」が必要な組織になってしまったのかを考えてみよう。それは責任分担が不明確で、いわゆる「魚のウロコ状」組織になってしまっているからだ。

こうした企業がとるべき正しい道は、まず「大勢の合意形成」という紋切り型の思考様式を捨てることなのである。責任分担を明確にし、他部署の責任範囲に無責任な意見をしない組織に変えていくことより他ないのだ。

「大勢の合意形成」的体質の組織を、「大勢の合意形成」で改革するという発想そのものが、自家撞着もはなはだしい。こんなことに着手すれば、そのニセの「組織改革」はいつまでたっても終わらないだろう。「大勢の合意形成」的体質を変える方法は、責任分担の明確化の他にありえない。

したがって、改革方針を策定する前に、各部署の責任範囲を明確にし、各部署がそれぞれの責任範囲内で方針を策定するというのが正しい手順である。そして方針が責任部署によっていちど策定されたら、他の部署は黙ってしたがい、責任範囲外のことに余計な口をはさまない。これ以外に、永遠に終わらない合意形成プロセスに終止符を打つ方法はないのである。

しかし、このことを分かっている日本人サラリーマンはごく少数派のようなのだ。いまだに大多数のサラリーマンは、全員参加型の改革を無条件に正しいと考えている。大多数が、大多数参加型が正しいと考えているため、仮に失敗しても、それは考え方の間違いではなく、やり方がまずかっただけだと思ってしまうのだ。そのため「大勢の合意形成」型の改革から、どこまで行っても逃れられない。

この2つめの事例を、ひとことの教訓にまとめると次のようになる。「全員参加型は時間と金がかかるだけ。責任分担の明確化が先」。

ところで僕はこのエッセーを書きながら虚しい思いを禁じ得ない。というのは、日本人はそもそも合理的な思考より、「思い」が大好きなのだ。何かプロジェクトをやるにしても、その場を支配するのは参加者全員の熱い「思い」であり、合理的思考はたちまち背景に退いてしまう。

「思い」に対抗するには「思い」をもってする他ないのだが、「思い」入れたっぷりに合理的な反論をすると、単に小難しい理屈をこねる人間として敬遠されるか、書生くさい議論だと相手にされないかのどちらかになる。

僕がこの種の閉塞感にとらわれずに済むのは、哀しいことに西洋人といっしょに仕事をしている瞬間だけなのである。


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