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書き言葉と話し言葉

PCの文化と一杯飲み屋の文化

1998/01/18

文学界の新年特別号に、村上龍と庵野秀明の対談が掲載されている。本屋で立ち読みしてその意気投合ぶりは頼もしいかぎり(?)だ。思えば僕が村上龍と庵野秀明のそれぞれにまったく別のルートから興味を持ちはじめた矢先、「ラブ&ポップ」の映画化でこの2人の才能が出会ったのは、僕にも神様の呼び声が聞こえているのかしらと思った、というのは冗談。

で、その対談の中に、おじさん世代の「話せばわかる」文化と、若者の「話しても通じない」文化を対比させている部分があった。おじさんは、話せばわかるという観念があるから、若者に対して正面から道徳を説いたりする。しかし、実はその言葉は若者にはまったく通じていない。なぜなら、若者は腹を割って話すという文化がないからだ。

これはとても鋭い指摘だと思った。たしかにおじさんは、酒を酌み交しながら腹を割って話すという文化がある。公的な話と私的な話を、使い分ける文化がある。だから、本音で話せば必ず相手に通じるという先入観で、若者に向かって本気で説教を垂れる。

しかし、若者には、公的な話と私的な話を使い分ける文化はない。親しい友達と話すときでも、けっして自分の弱みを見せないように、本音は話さない。だから、他人と交わす会話は100%公的な話、おじさん世代の言う「建前」になる。仮に本音を話す機会があるとすれば、それはごくごく特殊な場合に限られる。

映画「ラブ&ポップ」でも、援助交際をする女子高生・裕美と、その両親の絶望的なくらいのコミュニケーション不全が気味悪いくらいによく表現されていると、原作者である村上龍自身も絶賛している。いくら親から「援助交際はやめなさい」と言われても、その言葉は女子高生に届かないし、もともと親はそんな説教を垂れることをあきらめている。

この文学界の対談を読んで、サラリーマンにあてはめてみると、今までこのページで考えてきた酒とサラリーマンの関係を別の角度から解釈することができる。つまり、若者はもともと酒を飲みながら腹を割って話すという文化を持ち合わせていないのだ。

では、なぜおじさんは酒に酔って本音を話し、若者はつねに建前しか話さないのか?おそらく、話し言葉と書き言葉に対する態度が、おじさん世代と若者で根本的に異なるからだろう。

たとえば、おじさんの少年時代、プライベートなコミュニケーションと、リアルタイムな情報はほとんど話し言葉だった。年長の世代との対話や、ご近所との会話、そしてラジオ。

それに対して書き言葉は、即時性のある情報と言うよりも、永続性のある情報を蓄積するための特殊な手段だった。話したり聞いたりすることに対して、書いたり読んだりすることは、特別な意味をもった行為だったに違いない。

僕らの世代にとって、私的なコミュニケーションや、即時性のある情報は、必ずしも話し言葉ではない。友達との会話は本音を吐露するような場ではなく、また、即時性のある情報はたいてい画像という目に見える形で入ってくる。

そして、書き言葉は、おじさん世代にとってのような特殊な意味を持っていない。おじさん世代にとって活字とは読書であるが、僕らにとって活字とは情報誌であり、マンガの吹き出しであり、TVのテロップである。それは永続性のある情報を蓄積するものというより、むしろ即時的でその場限りの情報である。

しかし、僕らにとって書き言葉は、単に即時的な情報の意味を持つだけではない。ほんとうに大切なこと、心の奥底を表現するには、僕らは書き言葉に頼らざるをえない。僕らにとっての話し言葉から追い出されてしまった本音の部分が、書き言葉に逃げ場を見出しているのだ。だからこそ、ポケベルなど、文字だけを使ったコミュニケーションに、僕らの世代は重要性を見出すことができる。

おじさん世代が、話し言葉に、公的/私的のモードを持つのに対して、僕らの世代はむしろ、書き言葉に私的モードを持ちこんでいる。このズレこそが、おじさん世代と僕らの世代のコミュニケーション不全の原因なのではないか?

このことは、コンピュータの世界でおもしろい現われ方をするかもしれない。コンピュータは残念ながら、まだ自由な話し言葉をリアルタイムで解析するところまで発達していないので、徹底して書き言葉の文化になっている。すべてを文字に書き表さなければ、一歩も進まない世界だ。

ところがおじさん世代は、基本的にコミュニケーションを話し言葉で済ませようとする傾向にある。そして重要な事柄ほど、できるだけ書き物に残さずに、それこそ「密談」で済ませようとする。これはコンピュータの文化と本質的になじまない。おじさん世代がコンピュータになじめないのは、たぶんキーボードアレルギーのせいだけではない。

それに対して僕らの世代は、避暑地のペンションのらくがき帳から交換日記やプリクラの書き込みにいたるまで、実はおじさん世代よりも書くという行為に親しんでいる。だから、とりとめのないことを文字にして書き連ねることは得意だ。まして重要なことほど、書き言葉にしたいという気持ちがある。

このように、僕らの世代はもともと、コンピュータの書き言葉文化になじみやすいように育っているのだと思う。これはたとえばグループウェアなど、文字の形で情報を共有するツールが出てくるほど、サラリーマンの社会でははっきり現れてくるだろう。

なぜなら、グループウェアというツールは、今までおじさんがもっとも書き言葉にすることを嫌ってきた重要な情報を、書き言葉にすることで共有し、ガラス張りにすることを基本思想にしている。そうでなければグループウェアの効果はゼロである。

実は、このことは僕自身のサラリーマンとしての日常からも痛切に感じることだ。おじさん世代は酒を飲ませて本音を引き出そうとするが、僕らの世代の価値観としては、本当に大切な思いは、軽々しく口に出すようなことじゃない。本音だからこそ正確に伝えたいし、正確に伝えたいからこそ、話し言葉ではなく、書き言葉にしたいのだ。

たぶん僕と同じ世代の方もそうじゃないだろうか?たとえば、直接会って思いを伝えるよりも、書き言葉やポケベルで伝えたいと思うのは、話し言葉がいかに誤解を生みやすいか、そのことをよく知っているからだ。だからじっくり考えながら書き言葉にすることで、できるだけ正確に自分の思いを伝えたいと考える。それが僕らの世代の言葉に対する態度だろう。

それを分からないおじさん世代は、お酌をしながら、どうなの?どうなの?と赤ら顔で本音を聞き出そうとする。それはおじさん世代が、話し言葉で本音を語る文化圏に生きているからだ。僕らはとても酒にまぎらせて、本当に大切なことを語る気にはなれない。

実は書き言葉の復権は、僕らの世代にあるのではないかと思う。とくに個人情報誌のベル友募集や文通友達募集の個人広告を読んでいると、僕らの世代は書き言葉によって本当に大切な思いを、話し言葉のいい加減さから守ろうとしているんじゃないかと感じることがある。

話し言葉と書き言葉の決定的な違いは、「遅延」にある。話し言葉は話した瞬間、相手に聞こえてしまうから取り返しがつかない。でも、書き言葉は書いてから読まれるまでに時間差、遅延がある。その時間差の中に、僕らは必死で真実を書きとめようとしている。

その意味で、僕らにとって、インターネットのホームページはもちろん、リスナーのハガキで構成されるラジオ番組も、同じような「遅延」を持っているという意味で、真実を宿すための書き言葉に他ならない。そのことを理解しないおじさん世代の言葉は、永遠に僕らには届かないのかもしれない。



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