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![]() 最適化思考の陥穽 ( 20001110 ) 日本人の会社員や学生は与えられた問題に対する最適解を見つけだすのは得意だが、問題そのものを発見したり、新しい課題をつくり出す創造的な能力には欠けると言われている。しかし何が問題であるのか、自分が何を問われているかを正しく把握するのも実はひじょうに難しい。 あるエコノミストの本に次のようなエピソードがあった。企業からの依頼で社員研修の一環として経済学の講義を行っているが、講義の最後に質問を受けると、講義の内容とまったく関係のない質問をされることが多いというのだ。たとえば講義では限界費用の話をしていたのに、「グローバリゼーションはユダヤの陰謀ではないか」なんていう質問をされる、などなど。 ふだんから疑問に思っていることをこの際だからというので専門家にぶつけているだけだ、とこのエコノミストは書いている。質問者は自分が何を問われているか、自分が聴いた講義でいったい何が問題になっていたのか。正確に把握できていないし、そもそも把握するつもりもないということだろう。 最近、僕自身も同じような経験をした。ある社会人研修の場で簡単なコンピュータ・プログラムを演習のツールとして使うことになった。講師はそのツールについて、研修のために無料で提供するものなので機能制限があるが、演習の目的は十分達成できると、ひとこと断った。にもかかわらず研修の最後に受講生の一人が「このツールでは○×ができないので、考え方が古い」と講師の批判を始めたのだ。 この受講生は自分の知識をひけらかしながら講師を批判したが、あっさり知識の間違いを指摘されて化けの皮がはがれた。単に自分の知識をひけらかして自尊心を満足させたかっただけで、講師の話をまったく聞いていなかったというわけだ(ちなみに彼は次の講義から姿を現さなくなってしまったが)。 正しい答えを出すためには、まず正しく問題を把握する必要がある。所与の問題に対して最適解を見つけだすのが日本人の得意技だというのが本当なら、その日本人が問題をとり違えてしまうようになったら、国家の存亡にかかわる(?)致命傷になるだろう。しかし今それが起こりつつあるのではないか。 上記に書いたどちらの例も根は同じで、大きく二つの原因がある。一つは会社組織という均質的で狭い世界の中だけで長年モノを考えるクセがついてしまっているので、自分の世界の大きさがそのまま現実の世界の大きさと一致しているという間違い犯している。 自営業者などに比べると、会社員は自分の日常生活の領域の普遍性をあまりに素朴に信じすぎてしまう傾向がある。ほとんどの成人が会社員であるということと、例の「中流意識」という正体不明のコンセンサスがあるおかげで、会社員は自分たちが「典型である」と無意識のうちに思いこんでいる。その「典型である」という意識が、個々人の特殊な環境まで普遍的なものであるかのように勘違いさせ、会社員は自分が「日本の常識」を体現していると主張しがちである。 もう一つの原因は、所与の問題の最適解を見つけだす作業に慣れてしまうあまり、以前見つけだした問題と最適解の組み合わせをまったく別の問題にもあてはめ、解答に合わせて問題を作り換えてしまうということだ。 問題としてはこちらの第二の原因の方が実害は大きい。第一の原因のように、自分こそ「常識」だと主張する「非常識」な会社員は、裸の王様だと笑って済ませることもできる。しかし第二の原因のように勝手に問題を作り換えてしまったのでは、ほんらい問題を含むことが何の問題もないことになってしまう。 おそらく最近の日本の製造業における品質管理上の問題は、こうしたことが原因になっている。何が問題であるかを正確に同定する以前に、問題そのものを最適解に合わせて改変してしまい、そもそも何が問題だったのかを誰にも分からなくさせてしまう。問題と答えがずれているのは、解答者の能力が足りないからではなく、むしろ中途半端に能力があるために、問題そのものをすり替えてしまうという越権行為のせいなのだ。 ではなぜ問題を勝手にすり替えてしまうのか。それは問題から答えにいたるプロセスに関心がまったくないためである。初めの問題がどう立てられたかにかかわらず、結果として出された答えだけが独立して評価される。答えの出された時点だけを切りとって評価する。結果さえ出せば良い。その答えに至ったプロセスはもちろん、そのプロセスの開始点となった問題と最終的な解答の一貫性もまったく問われることがない。 さらに言えば、そもそも開始点の問題がどのようにして問題として立ち上がってきたのかという「始まりの始まり」になると、ほとんど誰も考えない。 こう考えてくると、そもそも本当に日本人は与えられた問題の最適解を見つけ出すことが得意なのかきわめて疑わしくなる。問題の始まり、つまり「始まりの始まり」を考えずに最適解を見つけ出せるような問題が、問題と呼ぶに値するのか。 何かを問われるということは、本来、思いもかけないようなことをいきなり問われるという「驚き」があるはずだ。まったく異質な存在(それが人であるか事物であるかは別として)からのいきなりの呼びかけ、それが問題というものの本質であるはずだ。問題とは自他の違いを思い知らされるという体験である。 ところが会社員はその「違い」を避けようとする。お互いに「同じ」であることを確認することで会社員の日常は成り立っている。「同じ」であるもの以外は認めようとしない。多くの会社員は同一性を必死で求めているが、問題化する意識は必死で「違い」を見つけ出そうとする意識である。同様に何かを創り出すということは、みんな「同じ」であるものの中に何か一つ「違う」ものを生み出すということだ。 他方、与えられた問題に最適な解を見つけ出す能力は「違い」を縮減する能力である。「違い」を少なくする能力がプラスに評価されるのは、ただ「違い」を少なくすることによって、新たな「違い」をより多く受け入れるためである。 日本はこれまで数十年間にわたって「違い」を少なくすることに国をあげて努力をしてきたが、本来その努力は新たな「違い」を受け入れるためのものであったはずだ。ところが多くの日本人はそうした本来の目的を忘れて、今達成されている同質的な社会に自ら同化してしまっている。 結果として与えられた問題に対する最適解を見つけだす営為は、単に自分の先入観と目の前の問題が「同じ」であることを確認するだけの不毛な反復になってしまっている。 今僕らがなすべきことは新しい問題を問うことであるはずだ。間違っているのは僕らが出そうとしている答えの方ではなく、僕らが問題だと思っている問題そのものである可能性が高い。 無断転載禁止
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