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![]() 片方だけのエコノミスト ( 20031119 ) 英『エコノミスト』誌にクルーグマン教授が最近政治的な党派性を強めすぎていると批判する記事が掲載されていて、多少驚きをもって読んだので、ここに勝手に日本語訳してみたい。もともとの題名は「one-handed economist」となっている。あっさりと「片方だけのエコノミスト」と翻訳してしまった。あまり気の利いた翻訳でなくて申し訳ないが、なかなか面白い記事なので最後までお付き合いを。副題は「ポール・クルーグマンと、物議をかもす大衆向き経済学」。本文の始まり、始まり... ある米国大統領が苛立ってこうたずねた。「『片方だけのエコノミスト』を呼んでくれ。私のエコノミストはみんな『一方では...ですが、もう一方では...』と言うんだ」。少なくとも片方だけという観点からすると、ハリー・トルーマン大統領はポール・クルーグマンを気に入っただろう。彼はほとんどためらわず大胆な立場をとる。テーマが彼自身のことであってもだ。このプリンストン大学教授は『ニューヨークタイムズ』紙に週に二度コラムを連載しているが、そのコラムが「ニューエコノミー」についての親切な説明から、ブッシュ政権に対する痛烈な批判へと変化していることについて語りながら、最近自分のことを「腐敗の海の、孤独な真実の声」と表現している。 クルーグマンがメディアのスーパースターとしては最高の経済学者だ。このことに議論の余地はない。少なくともミルトン・フリードマンや、さかのぼってジョン・メイナード・ケインズがジャーナリズムに転向して以来の最高の経済学者といえる。通貨危機と国際貿易についてのクルーグマンの著作は、他の経済学者からも幅広い賞賛をうけている。彼は経済学分野のジョン・ベイツ・クラーク賞を受けているが、これはノーベル賞よりほんの少し受賞するのが難しい。人気の点でも彼の新しい著作『The Great Unravelling(大解明)』は、専門家でない一般大衆を対象とする8冊めの本で、『ニューヨークタイムズ』紙のベストセラーリストに8週連続で登場している。 『エコノミスト』も折にふれて経済学のしきいを下げることで知られているので、痛烈な(しかし魅力的でとっつきやすい)経済分析を書くなと言って誰かを批判することはまずできない。しかしクルーグマンがジャーナリストとして成功しているのは、彼の経済学の成果ではなく、その犠牲の上に成り立っているのではないかとだんだん疑問に思い始めている。というのは彼はコラムニストとして、とくにほとんどの解説者よりずっと早く、カリフォルニアのエネルギー危機に市場操作が一定の役割を果たしていることを見きわめ、新聞記者風に批判をしているが、その一方で最近の彼の記事でいちばん印象的なのは、おそらく経済学的な厳密さではなく、政治的な党派性だろう。 Lyinginponds.comというWebサイトは米国の政治コラムニストの党派性を追跡しており、コラムが全体的にどれだけ政治的に偏っているかという点から、クルーグマンをアン・クルターにつぐ第二位に位置づけている。アン・クルターは猛烈な(そしてときにつじつまの合わない)保守論客である。このWebサイトはあらゆるコラムを網羅しているので、クルーグマンのコラムの大半は共和党への攻撃になっており、ほとんど民主党批判がないことがわかる。このことからクルーグマンが米国の左翼にとって象牙の塔の正義の味方、つまり知識人のマイケル・ムーアのようになっているのは驚くにたりない。しかしクルーグマンにはイデオロギー上の敵対者にむしろたくさん読者がいて、特にインターネット上では彼の最新コラムを構造解析することが、週二回の一種のテーブル・ゲームのようになっている。そこでの論争は非常に激しく、トークショー風のおしゃべりや、法的な脅しさえ起こっているにもかかわらずだ。 クルーグマンはこれらの批判を「ストーカー」だと言っている。それらの批判の多くは、些細なあら探しをしたり、統計数値のつまらないミスを指摘したりすることにとんでもない時間を割いている。しかしそれらの批判を無視するのはそう簡単ではない。それらの中でも比較的論理的な批判は、クルーグマンが才能ある記者であり、経済学者であることを認めながら、最近の容赦ない党派性は彼の議論のさまたげになっていると論じる。それらの批判はつぎのように問いかけている。米国の政治経済の状況は、ほんとうにクルーグマンが描き出しているほど偏っているだろうか。もしそうでないとすれば、クルーグマンは卓越した経済学者として大衆にそう語りかけるべきではないか。 彼の過去のコラムをざっと眺めると、世の中のすべての悪をジョージ・ブッシュのせいにする傾向が強くなってきていることがわかる。たとえばカリフォルニアのエネルギー危機にしても、ブッシュ政権と連邦エネルギー規制委員会が価格キャップ制をもっと早く導入すればよかったと言って非難している。しかしビル・クリントンが危機の前半で同委員会の怠慢を放置したことにはふれていないし、当時の民主党カリフォルニア州知事グレイ・デイヴィスが、電力の小売価格の値上げを拒否して悲惨な結果をまねいたことについてもふれていない。マレーシア首相のマハティール・モハマッドが最近反ユダヤ的な演説をしたとき、クルーグマンはブッシュ政権の外交政策のヘマのせいで、マハティールが国民の支持を取りつけるためにそんな発言をせざるを得なくなったと議論している。彼が退任直前だったことを考えれば、こんなことはほとんどありそうにない。 また、彼の経済学までがときどき酔っ払っている。最近の小論では「労働塊の誤謬」を信奉する保守主義者たちを非難している。この「労働塊の誤謬」とは、労働量は固定されており、政府はそれを公平に分配するように努力しなければならないというものだ(think or die註:「労働塊の誤謬」とはいろんな労働の質がけっして同じではないにもかかわらず、労働を一定の総量としてとらえ、一人当たりの労働時間を減らせば失業率は改善するという間違った考え方のこと。機械による自動化が進めば大量の失業者が生じるという説が1950年代にあったのもこの間違った考えにもとづいている。最近の例では、フランスの左翼政党が労働時間の短縮で失業率を下げようとしたが、かえって悪くなってしまった)。じっさいにはクルーグマンが引用している論文は労働塊の誤謬を受け入れてはいなかった。またクルーグマンはゲーム理論をつかって、ブッシュは北朝鮮を非難しながら攻撃はせず、かわりにイラクを攻撃したので、「たぶん」北朝鮮がもっと危険な核保有国になるように仕向けているのだろうと論じている。こんな「たぶん」ではゲーム理論家たちはほとんど納得しなかった。全体的に見てこれらのコラムは、クルーグマンの個人的な政治信念はまったく尊敬に値するものであり、経済理論からどうにかして経験的に導き出すことができるものだ、という幻想を一般読者に抱かせる結果に終わっている。 タダの昼食などない 一回のジャーナリストとなった今、クルーグマンがフリー・ランチという考え方を受け入れたように見えても不思議ではない。たとえ経済学者としては考える余地があるとしても。あらゆる機会(昼食や、クルーグマンお気に入りの政策もふくめて)には費用がかかる。意思決定は、特に政治の世界ではとても難しい。さまざまな費用と収益のトレードオフ関係をふくんでいるからだ。結果として純益が得られても、ふつうはごくわずかだったり、不確かだったりする。一方だけの政治家たちとその支持者たちに、経済にかんする選択はたいてい灰色で、白黒はっきりしないことを思い出させることは、たしかに経済学者の仕事の一つだ。 クルーグマンの仲間の経済学者の多くは、彼が有名になったことをねたんでいるが、彼の怒りにまかせた暴言がその名声を傷つけ、ノーベル賞を決して取れなくなるだろうと考え、自分をなぐさめている。彼らは自分で自分をからかっているのかもしれない。ノーベル賞審査委員会はこれまで、悪評の高い経済学者を受賞させることを避けていないからだ。フリードマンにも賞を与えているし、もっと最近ではジョゼフ・スティーグリッツにも与えている。クルーグマンにはまだ見込みがあるだろう。 無断転載禁止
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