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さよならOJT
( 19970831 )

Japanese/English

よく言われるように、日本と欧米諸国の職業教育には大きな違いがある。欧米諸国の多くが高等教育で十分な専門知識を身につけてから、実務につくのに対して、日本ではいわゆる「OJT」によって、実務の中で専門知識を身につける方法がとられる。

しかし、OJTという制度はそろそろ限界にきているのではないか。

ひとつは必ずしもOJTに適さない専門性の高い職種があらわれてきていること。もうひとつは、まさにOJTを受ける若い世代が、OJTに適さない精神構造になりつつあることだ。

OJTに適する職種は、大きく2つに分類できる。本当の意味で職人芸が要求される職種、そして完全にマニュアル化できるような職種である。

前者のいちばん極端な例が、伝統工芸だ。経験を通してしか得られない特殊な「勘」や技術を必要とする伝統工芸は、徒弟制度という名前のOJTなくしては後継者を育てられない。まさに理論的な知識よりも実際の経験がものを言う世界だ。

後者の最右翼をあげるなら、ファーストフードの接客業務だろう。実務で直面する問題が完全に類型化できる場合、十分なマニュアルさえあれば、事前の知識などまったく必要ない。伝統工芸とはまったく逆の意味で、理論的な知識が必要ない職業領域と言える。

仮にある企業の接客業務の研修で、上司がつきっきりで新入社員に指導しなければならないとすれば、それは上司が保身のために業務の標準化をおこたっているだけのことだろう。じっさい、接客業務中心の企業では、ひじょうに機能的な接客研修が行われ、OJTのような遠まわりの方法は取っていないようである。

逆に、OJTに向かない職種は、前もって理論的な知識が要求される専門性の高い職種である。一般の企業で言えば、経理や法務、情報システム部門だろう。

しかし、おそらく多くの企業では、いまだにこうした部門の新入社員をOJTで育成しようとしているのではないか。このような方法は、結果的にはたいへん効率が悪い。

こうした職種を、伝統工芸のような職人芸とみなしたり、逆に完全にマニュアル化できるファーストフードの接客のようなものとみなす誤解が、OJTというやや時代おくれの制度を。

たとえば経理業務が職人芸と見なされがちなのは、おそらく新入社員を教育する立場の人々が、会計学や経済学について体系的な教育を受けていないため、自分の持っている知識を体系化しきれていないからだろう。

したがって、経理にかぎらず、先輩から新入社員への知識の伝達は、どうしても個々のテクニック、つまり、理論的一貫性のない「対症療法」の伝達になりがちである。

彼らはときに「大学時代の専攻なんか関係ないよ」と口にするが、そう言ってしまう人々は、自分のOJTが、教えられるがわの新入社員の教養や学識に大いにたすけられているということに無頓着すぎるのではないか。

つまり、OJTという制度を口実に多少あらっぽい教え方をしても、教わる新入社員はかなり効率よく吸収してくれるのである。だが、これはOJT制度そのものが「よい制度」であることの証明にはならない。

あるいは、たとえばシステム開発が職人芸と勘違いされやすいのは、ホストやオフコンが中心だった時代のなごりだろう。

ベンダーがハードウェアからソフトの開発手法にいたるまでお膳立てした時代は、たしかにシステム開発はすでに固まった技術を習得するという、職人芸的な性格が強かった。

しかし、オープン系の開発は応用すべき技術の幅がひろく、ユーザのニーズにあわせてそれらを自由に組みあわせる必要がある。

そこには一定の手法は存在しない。開発工数をプログラムのステップ数ではかることもできない。オープン系の開発は、有限個の要素技術の組み合わせから、無限のソリューションを引き出すという、すぐれて創造的な能力が要求されている。

このように、OJTに適した職業分野とそうでない分野がはっきりと存在している。

日本の高度経済成長を支えてきた製造業の製造現場では、確かにOJTはひじょうに適した教育制度であっただろう。しかし、スタッフ部門やサービス業にまでOJTを拡大したのは、いかにも日本企業の芸のなさである。

製造現場でのOJTは、日本の「モノづくり」の潜在力を維持するために、今後とも必要であろう。しかし、スタッフ部門やサービス業については、OJTとはちがった教育制度が考え出されなければならない。

では、これまではなぜ間接部門やサービス業など、いわゆるホワイトカラーの職場でもOJTが有効であるように見えたのか?

実は、有効であったのではなく、たいして効果はなかったのだが、問題が表面化しなかったので、いつの間にかそれで「良し」とされてきただけなのだ。

OJTの問題があられなかった理由はいくつかある。

ひとつは右肩あがりの経済成長。つまり、先輩と同じやり方を踏襲してさえいれば、大きな失敗をすることはなかったし、確実に業績をあげることができた。過去と現在が連続した時代には、スタッフ部門のように本来は知的生産性が求められる職種でも、表面上は「職人芸」的な師弟関係が成り立つ余地がある。

そしてこの疑似的な師弟関係をささえていたのが、いわゆる「体育会系」の先輩・後輩関係である。疑似的な師弟関係においては、先輩は後輩よりも「無条件に」すぐれているとみなされる。後輩が先輩より有能であっても、先輩のほうが有能であるという「お芝居」を続ける必要がある。

そして後輩がいつか先輩になったとき、同じような「体育会系」の先輩・後輩関係の中で、同じような力関係をくりかえす。むかし自分が先輩に押さえこまれていたのと同じように、今度は自分が後輩を押さえこむのである。

もうひとつ、OJT制度を支えてきたのは、第一の背景である「体育会系の師弟関係」と一見逆のようだが、先輩よりも後輩の平均的な学力が上であったことではないか。

受験戦争の激化によって、管理職層の世代よりも、若い世代の方が体系的な教育を受けている(それが良いことか悪いことかは別にして)。したがって、若い世代は多少あらけずりな知識の伝達でも、自分で体系づける能力をもっている。この格差が、逆にOJTを支えていたといえるのではないか。

はっきり言えば、OJTというのは、ひとつの教育「システム」というより、「システムを作らない(作れない)」という、ある種の敗北宣言である。これまでは、上に述べたような理由で、逆にその敗北宣言を受け入れる素地がかたちづくられていたのである。

このことに気づかず、OJTが機能してきたのは自分たちが有能だからだ、と誤解している管理職層は、ときに恥ずかしい姿をさらしてしまう。

たとえば、最近の若者がいかに正しい漢字を知らないか、説教しようとしたお偉方が、黒板に大きく書いた漢字の間違いを、逆に新入社員たちに指摘された、という赤っ恥がその良い例だ。

このように、OJTという「無策の策」を支えてきた前提条件が、いまやすっかり崩れようとしている。

まず、先輩のやり方を踏襲していたのでは、たんなる懐古趣味になってしまうことだ。

21世紀にもなろうという時代に、出世のためとゴルフの練習にいそしむ若者がいる。僕らが40代を迎えるころ、ゴルフ場は環境破壊のやり玉にあげられ、プロゴルフプレーヤーの聖域になっているだろう。

さらに、世代間の学力格差がなくなっている。先輩が無学のゆえに先輩づらしなければならない時代は終わっている。先輩も後輩も知的水準は対等である。そこには本当に意味での「競争」が生まれる。

いつまでも先輩づらして後輩を押さえ込もうとする上司に対して、新入社員たちは感情的にではなく、実力での挑戦をこころみる(実力で対抗できない人は、体育会系の師弟関係におさまったほうが楽ではあるが)。

そしてOJTを決定的にダメにするのが、世代間のディスコミュニケーションだ。

OJTがなんとか成り立つのは、先輩と後輩との間にあるていどの意志疎通が可能な場合だけだ。先輩と後輩の(たとえ形式的ではあれ)信頼関係のないところに、OJTという制度は成り立たない。

しかし、アダルトチルドレンに見られるような極端にクールな若者や、ひじょうに内向的で必要最小限のことしか口にしない若者は、急激に増えつつある。それに対して、やたらと雄弁で自信家で酒好きの管理職たち。この2世代間にOJTを成立させるだけの正常なコミュニケーションが成り立つかどうか。

家庭で自分の子供との間にさえ、密なコミュニケーションを持てない彼らが、利害だけで結びついた会社の新入社員との間に信頼関係を築くことはますますむずかしくなってくる。

世間にはん濫しているビジネス書にならって、「新人の顔色をうかがうなかれ!管理職は毅然とした態度で臨むべし!」と、開きなおった態度に出れば、こんな管理職は永久に能力ではなく「権力」をふりまわすしかないだろう。

そんな新しい時代に企業が考え出した名案が「自己啓発」である。

つまりは、「会社ではめんどう見きれません、自分で勉強しなさい」ということである。僕らの世代はこのチャンスを利用しない手はない。自己啓発は能力主義への確実な一歩だ。

たいした専門知識もないのに先輩づらする先輩たちには、いつまでも「師弟関係」の夢を見させておけばいい。彼らが自分の「権力」を利用して、まわりに張りめぐらせるこまごましたルールには、だまって服従していればいい。たとえそれが理不尽なものであってもだ。

そのルールに服従しているかぎり、彼らは自分の「権力」を自分の「能力」と勘違いしつづけるだろう。そのために彼らが出世したとしても、僕らの次の世代の新入社員は、もっと効果的に彼らの足元をすくう「能力」をそなえているだろう。

つまり、僕らの世代が真剣に相手にする価値があるのは、僕らの先輩ではなく、僕らの後に続く世代なのだ。

これからの時代のホワイトカラーには、ニセ物でない専門知識が要求されている。先輩のやり方を踏襲すればいいというのでなく、僕ら自身がしっかりした理論をうしろ盾に、初めて直面する事態にも、今までにない方法をつくり出すだけの想像力をもたねばならない。

だからこそ、今の僕らには理論が求められているのだ。

限られた命題から、無限の解答をみちびき出すための理論。一粒の種が何千という枝葉をしげらせるように、堅固な理論は僕らに豊穣な創造力を与えてくれる。

OJTという、現代のホワイトカラーに対しては大した効果もない教育制度に甘えつづける人たちは、そのツケをこれから払うことになる。そのすきに、僕らは自己啓発で確実に「能力」をつけよう。

彼らが休日に競馬新聞をめくっているからといって、それをまねる必要はない。

ゴルフに夢中になっているからといって、それで出世できると思ってはいけない。

そんな休日の過ごし方は、「旧き良き時代」の遺物にすぎない。

僕らの休日は、OJTに惰眠をむさぼる人々を出し抜くためにある。


追記:

僕がOJTについて考えたきっかけは、企業がすべての新入社員にOJTという画一的な制度を当てはめている現実を目にしたことである。

とくに僕のような論理的厳密さを重んじる人間には、OJTという制度が不向きだ。また、アダルトチルドレンのような自分の世界に閉じこもりがちな若者にも適さない。これからの世代は、OJTに適した人間の方が確実に少なくなっていくだろう。

その意味で、企業は教育面で学校以上に社員の個性を無視している。OJTのような中途半端な教育制度しか持たない企業が、社員が思うような能力を身につけてくれないと嘆くのはお門違いである。

社内でのジョブローテーションをもっと自由にし、社員が自己啓発で身につけた専門技術を生かせる職場に異動できるような、流動的な組織づくりをすべきであろう。


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