元日をはさんで各TV局で日本の将来を占う番組が放送されていた。これだけ国民全体に閉塞感が広がっているのだから無理もない。
景気が悪くなると民族主義的ショービニズムが台頭するのは世のつねで、自虐史観を批判するグループなどもその例。渡辺昇一なんていう影響力の小さくないおじさんまで、やたら「太平洋戦争は正しかった」とあおりはじめるくらいだから。
まあ彼らには勝手に言わせておくとして、さしあたり僕自身に関係あるのは、どうしたら僕の在籍している会社が黒字になるかということだ。
ただ、それをこのページで論じようとすると、自分の会社を名ざしで批判しなきゃいけないので、もっと漠然と、どうしたら日本の会社は息をふきかえすのか、ということをつらつら考えてみる。
12月29日、テレビ東京系で大前研一を司会に『情報ネットワーク革命〜21世紀はこう変わる!!〜』という番組が放送された。日経新聞の予告に、ビル・ゲイツ独占インタビューとあったので、「がんばれゲイツくん」の愛読者としては、米司法当局への毒舌を期待しただが、「国力のは基礎は人材だから、教育が大事だ」とまっとうなことをおっしゃっていた。日本は大事なマーケットだからね。
番組そのものは期待どおりインターネット賛美のオンパレードで、大前氏の手前ミソもたっぷり。個人的にはごもっとも!という内容ばかりでスッキリした。
ただ、こういう番組を見るにつけ思うのは、どうして日本の一部の企業のトップは、情報システムのマネージメントがあんなにヘタクソなんだろう、ということ。他のページでも書いたが、いまだに「情報システムは女子供の仕事だ」という偏見をぬぐい去れない経営者がいる。
そういう経営者は、ツール先行、業務そのものの改革が後回しになっているので、すぐに見分けがつく。ダウンサイジングといいながら、現状のシステムをそのままクライアントサーバに載せかえるだけ。業務フローの改善をまったくやらない、やらせない。
そういう情報システムのマネージメントでは、ダウンサイジングが業績の好転に結びつかないのは当然だ。
1月1日、NHK総合の『対論 立花隆と6人の若者たち〜21世紀を担う日本人とは』。立花氏の論旨は明快。時代の変革期には、メインストリームのエリートではなく、社会の周辺部の非エリートが次の時代をつくる、というもの。番組の終りに、わざわざ自筆のメモつきで持論を展開していた。
しかし、そういいながらこの番組に登場していた若者のほとんどが、歴然たるエリートだったのはなぜだろうか?発展途上国で開発援助のあり方を考えている英語に堪能な女性、人工知能・遺伝子工学と分野横断で人間とコンピュータのハイブリッドの可能性をさぐる研究者。彼らのどこが「非エリート」なのか?
あえて言うなら「非エリートが次の時代をつくる」という物言いそのものが、エリートである立花隆の大衆コンプレックスだ。しかし、一芸入試で大学にすべりこんだような学生には、残念ながら日本の将来を変える力はない。
ほかのページでも書いたが、本当に現状を打破する力を持っているのは、エリートの中でも、エリートという枠を向こう側へ突き破った人間だけだ。エリートにさえなれないような人間に、未来を変える力などあるわけがない。
それは、優秀な大学を卒業して、大企業に就職したエリートたちの大半が、会社の色に染まっていく現実を見ればわかる。そして残念ながら僕自身も、自意識過剰で中途半端なエリートのはしくれでしかない。僕にはとても未来を変える力などない。
その意味では、立花隆の論旨よりも、1月3日、WOWOWで放送された『古館伊知郎 TALKING BLUES 10th "ぶざま"』に展開された古館氏の意見の方がリアリティがある。彼は汚職で逮捕された官僚たちは、われわれ一般大衆とはまったく質の違うエリートなんだと言い切る。
古館氏風にいえば、ふつうの小学生がスカートめくりをやって鼻をたらしている間に、彼らエリートは必死で流水算を解いていた。ふつうの中学生が初恋の相手に告白しようかドギマギしている間に、彼らは1年早く現在完了形をマスターしていた。ふつうの大学生がテニスサークルや合コンにうつつをぬかしている間に、彼らはイギリスへ留学していた。
古館氏いわく、「おれらは先に楽しんじゃってるんだから、あいつらエリートにかなわないのは当たり前なんだよ」。まったくそのとおりだ。そんなにエリートになりたいなら、スカートめくりや初恋や合コンなど下らないことに時間を浪費せずに、勉強すればよかったのだ。
そんなにエリートになりたいなら、社会人になってからも、酒ばかり食らっていずに、休みだからって競馬やパチンコに行かずに、「自己啓発」に励めばいいのだ。それをやらずに「だからあいつら逮捕されちゃうんだよ」と言う権利はない。
しかし、そうして上り詰めていくエリート街道に、疑問をもてないエリートは、今の社会を維持することはできても、変えていく力はない。社会を変えるには、エリートから脱落するのではなく、エリートを超えたエリートになる必要があるのだ。それができるのは、エリートの中のエリート、言いかえれば一にぎりの「真のエリート」だけだ。
立花隆がそれを「社会の周辺部の非エリート」と呼ぶのは、あきらかに不適切である。正しくは「真のエリート」だけが社会を変える力をもっている、と言うべきなのだ。
メモを書きながら熱っぽく自説を語る立花隆の白髪がなぜか目立ってしまう番組だった。
と、いうわけでいろんな番組を見ながら、じゃあ僕のふだん生活している職場はどう変わるべきなのだろうか?と考えた。たぶん、僕がこのページでくりかえし言ってきたことは、それほど間違ってないのではないだろうか。
少なくとも、社員の能力を会社の枠にあわせて切りそろえようとする会社は、生き残れないだろうというころだ。
ん?こんな日経新聞の特集記事風の終り方でいいのかな?