![]()
![]() ドテラの王様 ( 20030517 ) 日本人だけが出席する日本語による会議と、外国人も混じる英語による会議。どちらがわかりやすいかと言えば、断然後者のほうだ。日本語の会議は日本語はよく分かるが、何を言っているのかよく分からない。英語の会議は英語さえ分かれば、何を言っているのかも明白である。なぜそうなるのかと言えば、よく言われるように、日本語の会議は、会議以外の場ですでにすべてが決まっており、会議の場ではそれがはっきりと語られないからだ。 先日、会社員を辞めたくなるくらいうんざりした日本語の会議があったので、今回はうんざりした原因を明確にするためにこのエッセーを書くことにする。 最初に断っておくと、以下の文章をお読みになると、僕の今働いている会社の社員がいかにも質が悪いかのような印象を与えるかもしれないが、僕自身もふくめてそのとおりである。しかし他の日本企業も大差ないということも真実だ。しょせん会社員という職業を選択する人々は日本人の平均値であって、それ以上でもそれ以下でもない。僕自身もふくめて。 その会議は某プロジェクトの定例会なのだが、以前から僕はプロジェクトの進め方について疑問を抱いていた。プロジェクトを日程どおりに、予定した工数の範囲内で進めるには、ものごとの進め方や意思決定の過程が、メンバーにとって透明になっている必要がある。しかしこのプロジェクトは、始めから透明さを欠いていた。 会議に出席していても、いったいどういう前提でこういう議論になっているのか、それを知っているのは司会進行役とプロジェクトリーダだけ、という状況のまま議事が進行する。なぜそうなるのかと言えば、司会進行役とプロジェクトリーダが、メンバーの知らないところで周到すぎる「根回し」をした上で定例会に臨んでおり、その「根回し」の内容がメンバーにまったく知らされないためだ。 プロジェクトのメンバーは、すべてがあらかじめ決定されており、その報告を聞くためだけに会議に出席しているような状態になっている。しかも司会進行役とプロジェクトリーダは、改善の必要性をまったく自覚していない。 こんな状態に対して、僕以外のメンバーが現在のところとっている態度は、いくつかのパターンにわかれる。 まず第一のパターンは、こういう状態について何の疑問も抱かない人々。彼らは旧来の日本的な社風にすっかり順応しており、誰かが決めたことに何の疑問も抱かず、ただ従うという行動パターンがしみついているので、この手のプロジェクトにはおそらく慣れっこになっているのだろう。 第二のパターンは、司会進行役とプロジェクトリーダが、いわばプロジェクトを私物化している状況を、内心ほほえましく思っている人々。事実、このプロジェクトは司会進行役をつとめる人物と、プロジェクトリーダの2人が、それぞれの強い思い入れから開始したものなので、この2人が強烈なやる気を持っているのは当然である。それを同情的にながめる第二のパターンのメンバーは、たしかに「大人」ではあるが、目先の仕事に自分なりの満足を見出す一方で、この会社がほんとうに何を変えなければならないのかを軽視している。 第一のパターンが「何も見ようとしない」タイプだとすれば、第二のパターンは「木を見て森を見ようとしない」タイプだといえる。 第三のパターンは、プロジェクトからフェイドアウトしていく人々。彼らは、プロジェクトを私物化している人々に対して、もう何を言っても仕方がないという諦めを持っている。無駄な時間を割くよりは、いろいろな口実を作って徐々に手を引いていけば、うやむやのうちにこの泥沼から退出できるだろうと考える、賢い人々である。 では僕はどうかといえば、大人気もなくプロジェクトを私物化している司会進行役に食ってかかり、不興を買うという、損な役回りである。 僕は中途採用者であり、なおかつ同じ会社で日常的に外国人といっしょに英語で仕事をしているということもあり、この会社の抱える問題を別の視点からとらえることができる、とても幸運な立場にある。 問題の会議で、進行役はいつもどおり、今後の進め方についての決定を先延ばしにしたまま、次の議題へ移ろうとした。しかし彼は「決定は先延ばしにする」ということについて、メンバーの了解をとろうともしないのだ。彼はつねにこのようなパターンで会議を進める。単なる司会進行役でしかないにもかかわらず、自分に決定権があるのが当然であるかのように振舞うのだ。 まともな司会進行役であれば、一つの議題に対してひととおり参加者の意見を求めるところだが、彼はどの議題に対しても真っ先にしゃべり出し、参加者全員の意見を聞くことなく、自分の用意した資料で好きなだけしゃべったところで、自分の結論をもって議題を終わらせてしまう。 僕としては、ここで今後の作業の進め方を決定しておかないと、プロジェクトの成果物をいざ執筆する作業に入ったとき、どのような細かさで、どのような範囲で執筆すればよいのか、迷走する可能性が高いと考えたので、「本当にそれでいいんでしょうか?」と念を押した。 すると進行役はたちまち眉をつり上げ、「今の時点で答えがわかっているのなら教えてほしいよ」と毒づいた。この言葉には、彼のような実践主義サラリーマンが、僕のような主知主義サラリーマンに抱く、典型的な反感が表現されている。よくいう、評論家はいらない、という決まり文句だ。 しかし、サラリーマンが「あれこれ文句を言うだけの評論家はいらない」というとき、ほとんどの場合、それは単に、自分には理解できないことを言われたとき、自分の知性の不足を認めるのがくやしさにそう言っているだけなのである。 僕が反論した相手がもしドイツ人であれば、ぜったいに「答えがわかっているなら教えてほしいよ」などいう、当てつけは言わなかっただろう。その代わりに、なぜこの時点で進め方をはっきり定義するのが間違いなのかを論証するだろう。そうしてくれれば僕はさらに反論をして...という具合に、議論が進み、その場にいる他のメンバーも意思決定の過程を共有することができる。議論とは、意思決定の過程を透明にするためにあるのだ。 ところがこの司会進行役は感情的な捨て台詞、実践派サラリーマンご用達のキラーフレーズしか言うことができなかった。それによってメンバーの参加意識はおそらく無意識のうちにさらに落ちただろうし、誰よりも僕の動機づけはガクンと下がった。そういった人物が司会進行役(英語で言えばfacilitator)をつとめているプロジェクトが、そもそもうまくいくはずがない。この問題は潜在的な問題として、プロジェクトが始まったときからささやかれていたが、いよいよ顕在化してきたということになる。 ところがこの問題をとても始末の悪いものにしている事実が一つある。それはこの司会進行役が、非常に熱心にプロジェクト管理、ロジカル・シンキングなどなど、米国発の流行のビジネス手法を勉強する勉強家であるという事実である。悲しくもあり、滑稽な事実! 彼は言ってみれば、両手に最新鋭のツールをたくさん持ちつつ、純和風のどてらを着て、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの米国のセットの中を雄々と歩いているようなものだ。自分ではビジネス手法の最先端を行き、アメリカナイズされた仕事をしているつもりでも、人から見た歩く姿は日本人以外の何ものでもないのである。 彼が純和風の「根回し」を日々実践している自分と、流行の最先端のビジネス手法を学んでいる自分と、どう折り合いをつけているのかはよく分からないが、最新の経営手法を紹介する本を読んだり、セミナーに出席していさえすれば、この会社の旧弊から逃れられたような気分になれるのだろう。しかし、そうしていとも簡単に脱出できた気分になれていること自体、彼がまったく変わっていないことの何よりの証拠なのだ。 僕はここで個人攻撃のようなことをしている。あえてそうしているのは、彼のような人物をチェンジリーダとして認めてしまう日本企業の危うさを指摘したいためだ。 実際、彼はこの会社でもチェンジリーダの一人であり、旧弊を捨てて、仕事のやり方を根本的に変革する過程を担う一人であるとされている。動機付けや行動力の点では、チェンジリーダたるに申し分ない人物であることは間違いないのだが、残念なことにあまりに純粋なのである。 自分がいかに旧弊にどっぷりとつかったままであるかを、あまりに早く忘れすぎているのだ。だから僕のように根本的な反論を投げかける人間に対しては、思考停止に陥り、せいぜい僕に対して「評論家」というレッテルを貼ることしかできなくなってしまう。 社内で改革の先端を担うとされ、そう期待されている人物でさえこうなのだから、一般的な日本企業が不透明な意思決定のシステムから抜け出すのがいかに困難であるかは容易に推測できる。 ひとつ確かなことは、いまこの会社から外国人が去ったとしたら、たちまちもとどおりの不透明な意思決定が支配する状態に逆戻りするだろうということだ。ではいつまで外国人がとどまれば、日本人は行動パターンを変えることができるのか。おそらく永遠に不可能だろう。とても悲観的な結論だが、それが事実だとしかいいようがない。 無断転載禁止
![]()
|