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管理会計にみる日本的経営の弊害
ここでも経験主義の弊害
1998/05/18

以前、このホームページのために、僕がまったく興味のない分野の雑誌をランダムに買って、あれこれいちゃもんをつけるという企画を思いついたことがある。たとえば釣りとか、マラソン愛好者の雑誌など。でもそんな雑誌を買うのはどう考えても金のムダなのでやめておいた。

今回はその延長線上にないとも言えないが、仕事と多少関係もある月刊誌『企業会計』(中央経済社)6月号を購入して読んでみた。僕は元経理マンなんだから、モロ仕事関係じゃないか!と言われればそれまでだが、経理部門に在籍していたときには見向きもしなかった月刊誌である。

経理部門を離れれば、経理の勉強をしたくなるだろう、という僕の当初の目論見は見事に適中したことになる。人ごとと思えばこそ、一生懸命勉強してやろうという気になるのは、僕がかなり「あまのじゃく」な性格だからかもしれない。

どうして今月に限って買う気になったかといえば、「欧米企業にみる日本的管理会計の実践」という特集が目に付いたからだ。「ABC(Activity Based Costing)予算によるホワイトカラーの生産性向上」という論文も面白そうだった。

で、じっさいに目を通してみたのだが、思ったより掲載論文のクオリティーが低い。「ABC予算によるホワイトカラーの生産性向上」は期待して読んだけれど、ABCについての掘り下げもなく、日本のホワイトカラーの生産性の低さの原因分析もなく、まったく期待外れ。

本流の記事ではないが「会計時評・21世紀の会計学のために」というコラムがおもしろかった。日本の会計学界に対する根本的な批判になっていて、その内幕をうかがうことができる。

ところで、特集の「欧米企業にみる日本的管理会計の実践」は、その中でも粒ぞろいの論文集だった。

ただ、最後の「『組織人』が組織におよぼす影響」(静岡県立大学助手・鈴木竜太)という論文だけは、ちょとがっかり。「新人と内部者が接する場面を通じて」というサブタイトルどおり、ある企業での入社1年目社員と中堅社員にたいするフィールドワークを通じて、日本的組織と個人の関係を分析するものだが、あたりさわりのない結論だし、具体的な提案もない。一方、「JIT生産方式とTQCの海外移転にみる日本企業の弱点」(小樽商科大学専任講師・梶原武久)という論文は、日本がみずから生み出したJITやTQCなどの経営手法が、いかに制度疲労を起こしているか、それを欧米の観点から照射する内容で、コンパクトながら要点をついていて、とてもおもしろい。

筆者の仮説は、JITやTQCが欧米の企業に導入されるとき困難をともなうのは、それらの手法に日本的経営が暗黙のうちに組み込まれているからである、というものだ。そして筆者はその阻害要因としての日本的経営の弱点を3つあげている。?日本的マネジメントの閉鎖性?「品質の聖域化」による非効率?漸進主義である。

この3点の根っこにあるものを考えてみると、僕がこのページで再三にわたって指摘している、非科学的経験主義という言葉でまとめられると思う。

まず一点めについてこの筆者は、日本的マネジメントの閉鎖性は「状況論理」によるものだとのべる。「状況論理」とはその場の状況に応じて柔軟に判断するもので、要は論理でもなんでもない、たんなるカンだ。

この「状況論理」という非論理について、筆者は、暗黙知/系列取引/情報技術の遅れという3つの弊害を指摘している。ノウハウを明文化しない暗黙知は経験のない者を無条件に排除し、系列取引は系列企業どうしでの経験の共有によって部外者をしめ出し、したがってオープンな形式知を前提とする情報システムが根づかないのは当然である。

なお、なぜ日本企業が暗黙知型マネージメントから形式知型に移行できないのかについて、僕はこのページで、暗黙知が中堅社員にとって「既得権益」であることを指摘してきた。しかし、情報システムに代表されるような技術革新の指数関数的な進歩によって、彼らの「既得権益」の資産価値が目減りし、紙クズ同然になるのも時間の問題だろう。

2点めの「品質の聖域化」による非効率とは、筆者によれば、これまで日本企業が「品質で儲かるのか?」という問題にあまりに無頓着だったことによる弊害とされている。

日本の品質向上は「科学的な根拠のない、いわば『信念としての顧客志向』にすぎなかったのである」(p.64)。僕らしく過激な言葉で言いかえれば、いわばカルト的TQCだ。

カルト的品質向上活動は、品質管理部門の肥大化と聖域化をもたらし、過剰品質や、散漫な活動など、かえって効率悪化をまねく。これも、もとはといえば、日本のTQCが現場の経験主義から生まれたものであり、戦略的・科学的な数量分析を経ていないことが原因だろう。

3点めの漸進主義は、現場至上主義の最たるものである。「現場レベルでの適応をボトムアップ的に積み上げていくことによって、組織全体が漸進的に環境に適応していくというもの」(p.65)だ。

もちろんこのような漸進主義は急激な環境変化にあまりに弱すぎる。なぜ日本的JITやTQCが現場中心の漸進主義かといえば、はじめに経験ありきの経験主義がベースにあるからだろう。まず科学的な分析から手法が形成されるのではなく、まず経験がある。連続的なカイゼンしかできないのは当然である。

以上、この論文の筆者が指摘している3点を考察すると、日本的マネジメントには、哲学の用語でいう先験的な分析がごっそり抜け落ちているのが分かる。つまり、経験に先立つ理論が欠落しているのだ。

線形的な経済成長を前提とした連続性のある社会では、理念がなくても経験だけである程度の妥当性は確保できる。しかし非連続な変化をむかえつつある社会で、理念の欠如は致命的である。これもこのページでくりかえし述べてきたことだ。

いままでの日本的マネジメントは、マネジメントではなく、現場の経験の追認でしかなかったといえば言い過ぎだろうか?これからは明確な戦略にもとづいたトップダウンのマネジメントが必要だ。

もちろんそのためには、経験だけでしか物が言えないマネージャーには、さっさと引退してもらって、自分の会社の流儀を相対化できるクールな視点をもったマネージャーの登場を願わなければならない。

今回『企業会計』6月号を読んで思ったのは、管理会計という個別の問題領域をとってみても、日本的経営の制度疲労がみごとに現れているということだ。『企業会計』を愛読する経理マンにとっても、『DDJ』を愛読するシステム・エンジニアにとっても、脱日本的経営を自分の業務範囲からどのようにサポートできるか、そういう観点がますます必要になってくるのではないか。

(文中・敬称略)